僕自身読み終えたばかりで知識として消化していないので本来書く
べきではないが書くという作業の中で僕自身がそれを飲み込んでいく
という効果をよく知っているのでとりあえず気になった文章を抜粋し
ていくことにする。それから僕の考えを付加していくのがスタイルだ。
読者ももし付き合って頂けるなら思考の流れを共有しそれぞれの考
えへと支流を伸ばして行ってほしい。
[序言]より
我々は我々に知られていない。それはそのはずである。我々は決し
て我々を探し求めた事が無いのだ。我々はいつまでも我々自身にとっ
て必然に赤の他人なのだ。我々は我々自身を理解しない、取り違えざ
るを得ない。我々に対しては「各人は各自に最も遠い者である」とい
う格言が永遠に当てはまる。
人間は如何なる条件の下に善悪というあの価値判断を案出したか。
そしてそれらの判断自体は如何なる価値を有するか。人間の進展を阻
止してきたかそれとも促進してきたか。
彼が道徳の起源について考えるに至って大先生と評するショーペン
ハウアーとの差し向かいによってぶち当たった壁、それは「非利己的
なもの」の価値、すなわち同情・自制・献身などの本能の価値につい
てであった。(本能?)
ショーペンハウワー大先生はこの問いに呑まれて生と自分自身を否
定するに至った。対してニーチェはこれらのものに終末の始端と停滞
と回顧する疲労と生に反抗する意志を見、同情道徳を二ヒリスムスに
する根源とした。同情の無価値ということに関してこそこれまで哲学
者たちはその所見を一にしていたのだからだ。――プラトーン、スピ
ノーザ、ラ・ロシュフーコー、カント――
同情と同情道徳の価値に関しては所与として(前提として与えられ
ているもの)、事実として、全ての疑問を越えたものとして受取られ
てきた。これまでは「善人」を「悪人」よりも価値の高いものとみな
し、およそ人間というもの(人間の未来を含めて)の進歩、功利、繁栄
に関してより高い価値を持つものとみなすことにはいささかも狐疑逡
巡の余地が無かった。(実行をためらうこと)
しかるにどうであろうか、もしその逆が真であるとしたら?
もし「善人」の内にも後退の兆候が潜んでいるとしたら?
ことによると現在のために未来を犠牲にするといった一つの危険が、
一つの誘惑が、一つの毒物が、一つの麻酔剤が潜んでいるとしたら?
よりちっぽけでよりケチでもよりのんきでより無事であるとしたら?
人間という定型がその本来達しうべき最高の力強さと華々しさに達す
る阻害物の第一人者としてそれらが君臨していたとしたら?
(ここで言う「逆」とは貴族的種族が見せる猛獣のごとき殺戮、略
奪、凌辱、拷問、虐待、残忍、それらに対する異常な愉悦のことであ
る。この被害者たちにとって絶望的な力が反動的に生み出す《反感》
こそが文化の道具、すなわち進歩の原動力だと彼は言う。これが廃さ
れた現代では温順な人間、救いようのないほど凡庸で活気のない人間
がもはや恐れる者は無しと自分を憐れむべき世人より上出来な者、少
なくとも生活力を持っている者、少なくとも生を肯定するに足る者と
自負するようになった。人間に対する恐怖を失ったことにより人間に
対する愛や畏敬、希望、そして人間に対する意志をさえ失ってしまっ
た。そのような「より善良な人々」が当たり前となり、人間を見るこ
と自体に倦怠を感じるようになってしまったのだ。つまり善良な人が
善良に磨きを掛けるほどに人類の進歩は緩慢になるというのが彼の考
え。そしてそれは人間本来が持つ能力を出し切ってはいないと…。
僕は性質が職人気質なので雨風や日光を遮るものが無い方がその植
物本来の成長を見られると考えてしまうんだけど普通の人はそうなの
かな。――ついでに一巡目の解釈を。
世間に正しいと認識されたことは容易に変えることが出来ない。し
かし正しさや習慣の中にも退廃するもの、時代錯誤となっていくもの
があって、しかしそれが正しさの殿堂に入って恭しく奉られたままで
あったならそのために未来に起こるべき発展の萌芽はすべて刈り取ら
れてしまう。これはその行為として悪なのではないかということ。)
しかし我々が「進め! 我らの旧道徳もまた喜劇に属する!」と腹
の底から言う日になればその時我々は新たなディオニュソス劇(喜劇)
の構想を手に入れるだろう。
第一論文 「善と悪」「よいとわるい」p.19~
イングランドの心理学者たちは何故かみな同一の仕事に携わってい
る。我々の内界の恥部をさらけ出し、場所もあろうに人間の知的矜持
(きょうじ。プライド)にとって見つけられるのが最も好ましくない習
慣の惰力や健忘、または盲目的・偶然的な観念の連合や機構、または
何らかの純粋に受動的な要素や自動的、反射的、分子的な要素、それ
に根本的に遅鈍な事柄の内に人間の真に活動的な要素や指導的な要素
発展にとって決定的な要素を見出そうとしている。
それは一つの内密で陰険で下劣で不可解な人間卑小視の本能であろ
うか。それとも一種の厭世家的な猜疑心であろうか。幻滅を感じ、暗
然となり、怨みっぽく怒りっぽくなった理想家たちの疑心暗鬼であろ
うか。それともキリスト教(及びプラトーン)に対する微かな意識下の
敵意と怨恨であろうか。
(僕が敵の糾弾に使う態度はこれに倣っているのかな? 人間を愛
せない人たちの心理を解明しようとする態度として)
しかし何と言っても遺憾なのは彼らには歴史的精神そのものが欠け
ているという事、彼らが他ならぬ歴史のあらゆる善き精霊そのものか
ら見放されているという事だ! 彼らは皆悉く哲学者たちの古いやり
方が事実そうであるように根本的に非歴史的な考え方をしている。
彼らは布告する――「もともと非利己的な行為はそれを示され、従
ってそれによって利益を受けた人々の側から賞讃され、『よい』と呼
ばれた。後にはこの起源が忘れられ、そして非利己的な行為はただ習
慣的に常に『よい』と賞讃されたという理由だけで実際また『よい』
と感じられるようになった――あたかもその行為がそれ自体として
『よい』ものででもあるかの如くに」。
――我々は功利、忘却、習慣そして誤謬(ごびゅう。まちがい)など
を評価の土台としているのであって高等な人間はこれまでこの土台を
人間一般の一種の特権であるかのように自慢してきたのだ。『よい』
という概念や判断の由来を明らかにするためには第一にこの自慢の鼻
を挫き、この評価を無価値にしなければならない。
『よい』の発祥は賞讃ではなく「よい人間」自身だった。換言すれ
ば高貴な人々、強力な人々、高位の人々、高慢な人々の自画自賛を第
一級のものと決めてこれをすべての低級なもの、卑賤なもの、卑俗な
もの、賤民的なものに対置したのだ。こうした隔たりを意識して初め
て彼らは価値を創造し価値の名を刻印する権利を獲得した。
上位の支配的種族が下層者に対して持つあの持続的・支配的な全体
感情と根本感情――これが「よい」と「わるい」の対立の起源なのだ。
むしろ利己的・非利己的というあの対立全体が人間の良心をますま
す強く圧し付けるようになるのは貴族的価値判断の没落によって初め
て起こることなのである。――あの対立によってついに語として現わ
れるものは「畜群本能」である。
「よい」を語源学的に見ればどこにおいても身分上の意味での「貴
族的な」とか「高貴な」とかが基本概念であってそれからして必然に
「精神的に高い天性を持った」とか「精神的に特権を持った」という
意味での「よい――gut(独)」が発展してくる。同時に「卑俗な」と
か「賤民的な」とか「低劣な」とかを結局「わるい――schlecht」と
いう概念に移行させてしまうもう一つの発展と常に平行して。
schlechtは「schlicht(素朴な)」と同語である。
(さらにschlechtergestellt《待遇が悪い、差別されている》を挙げて
おこうかな)
それは元々、単に貴族に対立している素朴な平民を指すものであっ
た。それがほぼ三十年戦争(1618~48)の頃に現在用いられているよう
な意味にずれてきたのである。
次に僧職階級の「清浄」と「不浄」について。
清浄な者とは元来は単に身を洗い、皮膚病を起こすようなある種の食
物を禁じ、身分の低い汚らわしい婦女と同衾(性交)せず、血に対して
嫌悪を持つ者を指すにすぎない。
僧職的貴族社会の内では行動嫌いな、半ば内燃的で半ば爆発的な習
慣が支配的であり初めから何かしら不健康なものが存在する。いつの
時代の僧職者にもほとんど避けがたい運命のように取り憑いているあ
の内臓疾患と神経衰弱とはそのような習慣の結果として現われるもの
なのだ。その治療薬として彼らが案出したものは断肉(ベジタリアン)
断食、性的禁欲、荒野への逃避であったがそれは結局癒されるべき病
気よりさらに百倍も危険な効き目を人類全体に遺したと言わざるを得
ない。それに加えて官能を敵視し懶惰(らんだ。怠けること)と老獪
(ろうかい。世慣れて悪賢いこと)とを誘致するあの僧職的形而上学の
全体を真似た自己催眠(思考や直感によってあらゆる現象の本質や存
在の根本原理、つまり形を為さない部分を解明しようとする学問。
⇔形而下)、さらにあの根本療法たる「無」への願望が続く。
彼らのこういった禁欲主義的理想の手にかかると全く一切がより危
険なものになり、さらに慢心に、復讐に、狡知に、放縦に、愛欲に、
野心に、徳行に、病気になる。――いくらか公平に見ればこの僧職的
人間の本質的に危険な生存形式を地盤として初めて人間一般は一個の
興味ある動物となり、ここで初めて人間の魂はより高い意味において
深くなり且つ悪くなった。
僧職的評価様式と騎士的・貴族的評価様式の対立。
騎士的・貴族的な価値判断の前提をなすものは力強い肉体、若々しい
豊かな泡立ち溢れるばかりの健康、並びにそれを保持するために必要
な種々の条件――すなわち戦争、冒険、狩猟、舞踏、闘技その他強い
自由な快活な行動の全てである。
対して僧職的な価値判断とは貴族的価値方程式への復讐、下剋上と
言ってよいものであり曰く「惨めなる者のみが善き者である。貧しき
者、力なき者、卑しき者のみが善き者である。悩める者、乏しき者、
病める者、醜き者こそ唯一の敬虔なる者であり(自分に対して。他に
拠るべき所がないから?)、唯一の神に幸いなる者であって彼らの為
にのみ至福はある。――僧職者こそは最無力者であり世界史上におけ
る最大かつ最も才気に富んだ憎悪者である――!
これに反して汝らは、汝ら高貴にして強大なる者よ、汝らは永劫に
悪しき者、残忍なる者、淫乱なる者、飽くことを知らざる者、神を無
きものにする者である。汝らはまた永遠に救われざる者、呪われたる
者、罰せられたる者であろう!」
彼らは結局ただ価値の根本的な転倒によってのみ、従って最も精神
的な復讐の一幕によってのみ自分達の仇敵や圧政者に対して腹いせを
する術を知っていた。
(なんだか僕の成さんとする事に抵触するね。最無力者に力を与え
る下剋上、既存の価値観の変革(→転倒?)、習慣としての力への敵視
・・・。僕は復讐がしたいの? むしろ無力者が無力者であること、
それを盾にしたり受容れている風を装う態度を良しとしない姿勢なん
だけどな。スーパーポジティヴな思考の持ち主としてはそういうウジ
ウジした感じは受け付けない。で僕から見ると変革を渋る権力者やカ
ネが総てと強がるブルジョワ連中もまたウジウジして見えるわけ。
精神的な満足を放棄して終わりなき欲望の連鎖、車輪を回すハムスタ
ーのごとき徒労の人生を生きると決意しながら常に彼らにとっては極
わずかな所有をやり繰りする満ち足りた人たちを横目に捉え、折に触
れては怠け者めとテーブルのトランプを散らかしてかかるあの神経質
でヒステリックな悲観論者、疎外感の被害妄想に苛まれた悲劇役者、
安寧を禁じた苦行者・厳格者、裕福なルサンチマンの群れは。
「けつの穴の小さいことを言うなよ、寛容になれ」と言いたくなる。
これは憎悪の感情なのかな――あるいは腹いせ?)
この問いかけに新約聖書嫌いのニーチェが答える。
――しかし諸君にはあれが分からないのか。諸君には勝利を得る為に
二千年を要したあの一件を見る眼がないのか。復讐と憎悪のユダヤ人
的な最も深くかつ最も崇高な憎悪――すなわち理想を創り、価値を創
り換える憎悪。しかもその憎悪をよりあまねく、より深く世界に根付
かせるためにこの樹幹は一つの新しい愛を樹冠に生じさせた。(すな
わち光を求めれば同時にその影をも受け入れることになる、愛と憎悪
の抱き合わせ販売)
愛の福音の化身としてのナザレのイエス、貧しき者、病める者、罪
ある者に至福と勝利をもたらすこの「救世主」――彼こそは最も薄気
味悪い、最も抵抗しがたい形の誘惑ではなかったか。あのユダヤ人的
な価値と理想の革新への誘惑ではなかったか、迂路(うろ。回り道)で
はなかったか。この「救世主」、このイスラエルの疑似敵対者、えせ
解体者の迂路によってこそイスラエルはその崇高な復讐欲の最後の目
標に到達したのではなかったか。イスラエル自らが全世界の面前で自
己の復讐の真の手先をまるで不倶戴天の仇敵か何か(同じ天下には生
かしておけないと思うほど恨みや憎しみが強いこと)のように拒絶・
排斥して十字架につなぐというこの偉大な復讐の術策。このパフォー
マンスにより「全世界」すなわちイスラエルの全ての敵は一も二もな
く餌に食いついた。如何に奸智に長けた者といえども果たしてなおこ
れ以上に危険なエサを案出することが出来るだろうか。神が人間を救
うために自ら十字架にかかるというあの想像を絶した極端で法外で残
忍な秘蹟劇に匹敵すべき何物かを案出することが出来るだろうか。
道徳上の奴隷一揆が始まるのは《反感(ルサンチマン)》そのものが
創造的になり、価値を生み出すようになった時である。ここで言う
《反感》とは本来の反動(リアクション)、すなわち行動上のそれが禁
じられているために単に想像上の復讐によってのみその埋め合わせを
付けるような徒輩の態度である。
ressentiment(仏)――心理学や社会学で怨念や怨恨を表す語。
自分の憎んでいる人間が大切にしていること
や物を軽蔑することによって間接的に示す怒
り。うっぷん晴らし。また敗北主義的な拗ね
た態度。自分より上の生活レベルにある人々
に対する怒りの気持ちなどと訳される。
全ての貴族道徳は勝ち誇った自己肯定から生ずるが奴隷道徳は外の
もの、他のもの、自己でないものを頭から否定する。(ブルジョワの
優越性はこちらに属する)そしてこの否定こそ奴隷道徳の創造的行為
なのだ。評価眼のこの転嫁――自己自身へ帰る代わりに外へ向かうこ
の必然的な方向――これこそはまさしく《反感》の本性である。貴族
的評価様式が自発的に行動し、成長するのに対し奴隷道徳の行動は根
本的に反動である。(ここにも善と悪の成立の違いがみられる)
《反感》を持った人間は正直でもなければ無邪気でもなくまた自分
自身に対する誠実さも率直さも持たない。(僕より辛辣だ)
彼の魂は横目を使う。彼の精神は隠れ場を、抜け道を、裏口を好む。
全ての隠されたものが彼の世界として彼の安全として彼の慰安として
彼のお気に入りだ。彼は黙っている事、忘れないこと、待つこと、差
し当たり卑下し謙遜することを心得ている。こういう種族は如何なる
貴族種族より利口になる。利口であることを最高級の生存条件として
尊重するようになる。
しかしそれは羊の皮を被ったオオカミになるための利口だ。
――強さに対してそれが強さとして現われないことを要求し、暴圧
欲、圧服欲、支配欲、敵対欲、抵抗欲、祝勝欲でないことを要求する
のは弱さに対してそれが弱さとして現われないことを要求するのとま
ったく同様に不合理である。ある量の力はその衝動作用、意志作用、
活動作用そのものに他ならない。それがそうでなく見えるのは偏に見
る側あるいは作用者の恣意的なあるいは好意的な解釈によるものに過
ぎない。そしてこの驚くべき取り替えこそが彼ら憐れな仔羊の牙とな
って猛禽に責め苦を負わせる。
曰く、「我々は悪人とは別なものにすなわち善人になろうではない
か。その善人とは暴圧を加えない者、何人をも傷付けない者、攻撃し
ない者、返報しない者、復讐を神にゆだねる者、我々のように隠遁し
ている者、あらゆる邪悪を避け、およそ人生に求める所の少ない者の
ことであって、我々と同じく辛抱強い者、謙遜な者、公正な者のこと
だ」――と言って自らなだめる時それは本当は「我々弱者は何といっ
ても弱いのだ。我々は我々の力に余ることは何一つしないから善人な
のだ」という以上の意味は持っていない。
すなわち彼らもまたいつかは強者になりたいと思っている事の表れ。
今度は羊の皮を被ったオオカミとして自由にその牙を振るいたいと願
っていることの。その下準備と訓練も彼らは怠らない。臆病な卑劣さ
を「謙虚」に変えたり弱者の事なかれ主義、弱者の臆病、終末の時を
ひたすら待つ執念を忍耐に変えるなど。それに敵への愛を説くことも
欠かさない。
彼らは報復という響きを好まず正義の祝勝と呼ぶ。彼らは「罪を憎
んで人を憎まず」を実践する。そして最後の審判の日が来て「神の国
」が到来した暁には彼ら正しい者だけが生き残り、これまでの苦しみ
の埋め合わせがなされると真剣に信じている。
その埋め合わせとは何か? それは天国から地獄の様子を見下ろす
ことである。罪人たちが罰せられる姿を見て愉悦に浸る――正に貴族
の持つ野獣的な快楽に浸ることが彼らの忍耐の果ての報酬であるとい
うのだ。
結局人間にとって善悪と残忍さは切っても切れない関係にあるのだ
ろうか?
それから僕の方で思い違いがあったので訂正しておく。貴族的人
間と《反感》を持つ者がそれぞれ想定する敵について僕は後者のよう
な人間こそ潔白で「いささかの軽蔑すべき点もなくきわめて多くの尊
敬すべき点のみを有する」者を想定すると書いたがニーチェの解釈で
はそれは貴族的人間の方で《反感》を持つ者はまず悪人を考想し、そ
れに対比する善人としての自分自身を作り上げるのだそうだ。そうい
う見方があって双方自分を際立たせるために敵を要求するという結論
に至るというわけだ。なるほど進歩に敵は不可欠という視点だもんね。
でも僕の犯罪者に対する見解もまた真だと思う。――彼に根拠を求めた
部分を消せばいいか。
以上、第一論文「善と悪」、「よいとわるい」を洗ってみた。第二
論文は次週に繰り越すことにする。――写しすぎだとのおとがめが無
ければの話だが。
