長々とお付き合い頂きありがとうございます。ニーチェの道徳観は
「力への意志」の一言に尽きるものでした。そのイニシアチヴを握る
べき人物像とはどのようなものか。実際は誰が握って来たか。そして
それはどうなったか。また力を放棄しなければならなかった人たちは
共同体の中でどう折り合いを付けてきたか。それはどうなったか。
私たちは彼の情熱的でありながら客観性を見失わない、人情味あふれ
る語り口と的確な思考の活字描写の恩恵を受けて正にショーペンハウ
アーが哲学した所の「読書とは他人に思考してもらう事である」を体
験しました。彼の魂を目で追いながらまるで彼自身が昼下がりの公園
で読書するかのような穏やかな集中力と表情豊かな筆圧および彼の感
情の起伏までも感じ取ることが出来ました。もはや私たちの道徳観は
彼によって語り尽くされ、洗練されました。次はそれを理解し、彼の
知識を伝承する事です。いつまでも偉人の著書として書店や図書館に
並べておくことは伝承ではありません。彼を偉人から一般人の地位へ
降ろすことが伝承なのです。私たちは彼の思想を私たちの思想に変換
しなければなりません。言うなれば伝言ゲームの如くで示されたまま
受け流すのでなく、各人の絵、各人の言葉に変換して次へ伝えるので
す。そこで僕もこの読書の締めくくりとして僕なりの飲み込み方を書
いておくことにします。
・・・人類の歴史は挫折の連続であった。あらゆる動物の長男とな
るべく遣わされながら母なる大地はまるで我々を拒絶するようであっ
たから。記憶、健忘、野蛮、反感、支配欲、冒険心、道具、言語、そ
して善悪と愛――そんな物が大自然の中で一体何の役に立つだろう!
全ての要素においてゾウとアリほどの開きがある相手に恭順する術も
知らない私たちはひたすら抗い続けるしかなかった。森を切り開き、
耕し、水を引き、家を建て、道を作った。つまり非自然化していった。
そんな労苦を嘲笑うように風が火が雨が虫が疫病が一瞬でそれらを無
に帰してしまう・・・。
食事もままならず、飲料水が手に入らないために常に酒に酔った状
態でとうとう私たちは口にしてしまう、
「人間はなぜ生きるのか? その目的は? 意義は?」
ニーチェは言う、「苦しみに対して人を憤慨させるのは実は苦しみ
そのものではなくむしろ苦しみの無意味さである」。
そこで彼らは解明できない苦しみに対して神々と種々の中間的存在
(精霊や妖精の類)を案出し、自己と自己に降りかかった災禍の正当化
(説明)を図った。
「神が見て喜び給うごとき災禍はいずれも義とせられる」
つまりこれまでの労苦は神(母なる自然)による刑罰であると理解し、
神に対する畏怖から抑圧的なあるいは強迫神経症的な理性動物にスイ
ッチした。(つまり国家が人民に施した理性教育以前に人類全体が自
然による理性教育を修了していた)
外部に放出されなくなった本能は自ずと同胞のうちのより弱い者、
資産を持たない者へと向かい、敵意、残忍、抑えがたい支配の意思、
芸術家的利己心、批判精神、反抗、侮蔑、否定、破壊衝動はいまや
自己滅却、自己否認、自己犠牲にその充足を――悦びを――求める
ようになった。
資産家たちは「自由意思」の発明によってそれを正当化し、一度
の不作、一度の飢饉や流行病が直ちに命取りとなる弱い共同体を維
持していくためには自分たちの生存が何に代えても優先されるべき
であると考える。それと同時に神による刑罰を緩和するための燔祭
(買収)を行うようになる。彼らはいまや人類の小さな神となって神
が人類にしたように恐怖と残忍な刑罰によって人類を支配した。
「民よ、我に従え! 反乱を起こすな。機械的活動に従事せよ―
―少なくとも共同体が(神に負けないくらい)強くなるまでは――。
我も血の涙を流して我の務めに順じよう」、王と僧職者は威厳を込
めて叫ぶ。(ここで言う威厳とは単に囚人と看守の関係における優
越感及び安心感の表出にすぎない)
大多数の持たざる者たちはこの恐るべき理不尽な時代の常識を無
理やりに肯定するために否応にも湧き上がる不信、疑惑、そして倫
理観を説き伏せる方便を欲した。――その要請に応えて哲学者は産
声を上げた。彼らは世界を否定し、生を敵視し、官能を信じずそれ
を超脱する事を目指した。宗教的人間の禁欲主義の始まりである。
それは支配者側の僧職者から出たのではない、抑圧された持たざる
者の中から必然的に生まれたのだ。
さて時代は下って技術革新によって食糧の収穫量が増え、人口は
増加した。それによって一時的に侵略と領土争いが激化したが共同
体は安定し始めた。人間主義の思想に基づいて持たざる者たちの自
由意思もわずかながら認められるようになり、人々は自己の倫理観
との対話の中で幾分無理なくアイデンティティーを確立出来るよう
になった。もはや資産家だけが生き残るべき人間ではなくなったの
である。少なくとも民衆はそう考えた。(ニーチェが民主主義や男女
同権を危惧し始めるのも恐らくこの辺りであろう。みんなに力の意
志を持たせるわけにはいかないから)
では禁欲主義的理想はお払い箱になってしまっただろうか?
否、それは二派に分かれた(あるいは三派)。一つは哲学者のもの、
もう一つは僧職者が哲学者あるいは預言者を真似て創始した。
理不尽な権力をあるいは肯定しあるいは糾弾するための理想が権力
を維持する為にも使われることになった・・・それが共同体を守る
ためだとの大義名分を以て。あるいはより相応しい所有者だと考え
たかも知れない。それによってあの理想の定義は書き換えられたと
腹の底から信じた。これで失われつつあった威厳を取り戻せる。
彼らは人民に恐怖と「良心の疚しさ」を植え付けるべく異端を発
明し、庶民の面前で魔女を火あぶりにした。次いで彼ら自身にそれ
を密告させた。
魔女の定義が分からずいつ自分がそうだと宣告されるか分からな
い、それに疎遠になりつつあった隣人がちょっとした不快を受けた
腹いせに自分を密告する危険もある。人々は彼らの狙い通り毎日を
怯え暮らした。そして彼らに救いを求めながら一方で彼らを拒否し
た――彼らがあの禁欲主義的理想の所有者であることを――。
彼らを取り巻く環境は未だ戦争と飢餓と疫病(ペスト)、盗賊などの
危険にさらされており彼らはキリスト教徒の罪から救ってくれるか
もしれないが実際に死の危険性を持っているそれらの厄災からは一
切守ってはくれない、いや守る力はないと気付いていたからだ。
それならば少なくとも私たちが始めに神と設定した自然に対す
る立場関係は何も変わっていないじゃないか。むしろお前たちは
人工的にそれを一つ付け加えたにすぎないと考え始める。
そこから宗教改革が生まれた。
悲惨極まる戦争の末に福音主義者(プロテスタント)としての生
存権、存在価値を確立した持たざる者たちは自身が理想とし、
心の励みとしてきた原初の禁欲主義的理想を再興し、信仰した。
(実際それを保護して戦ったのは貴族たちであったが)
戦争により深手を負った僧職者と民衆は沈黙し絶対王政が台頭
した。そしてその間にパスカルが人々の抑うつ症に喝を入れルソ
ーが『社会契約論』の中で民衆の自由と平等を主張した。
ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)
ルソーは『社会契約論』(1762年発表)の中でジョン・ロック的
な選挙を伴う議会政治(間接民主制、代表制、代議制)とその多数決
を否定し、あくまでも一般意思(特殊意志――個人の意思から相殺
し合う過不足を除いたもの)による全体の一致を目指した。
これはルソーが政治社会はすべての人間の自由と平等をこそ保障
する仕組みでなければならないと考えていたため。政治の一般意
思への絶対服従によって党派政治や政治家による抑圧を排した直
接民主制を志向した――絶対的な国民主権。
ただし君主制や貴族政を排除せず政体はあくまでも時代や国
家の規模によって適するものも異なるとし、社会契約による
国家が君主政であるにせよ、あるいは貴族政であるにせよ、
いずれにしても統治者が一般意志に服従することを重要視し
ている。(Wikiより)
――こうした哲学者たちの先遣隊と彼ら自身の経験を頼みとして
フランス革命が勃発した時にはもはや民衆は「力の意志」を行使す
ることをためらわなかった。ナポレオンの登場と彼の初期の統治を
彼らの意志の体現、政治と民衆の一体化と受取ったのは何もベート
ーベンだけではなかった。・・・しかしその幻想が脆くも崩れ去る
のにそう時間はかからなかった。人々は再び抑うつと無気力に陥っ
た。二度の世界大戦とヒトラーによる敵の設定をもってしてもそれ
は克服されず、王政に代わって台頭したブルジョワに国王ほどの心
理的ギャップを感じさせる威厳は無かった。人々は散発的に小規模
な敵を探しては自分を慰めつつ着実に漂白され、道徳化されていっ
た。それは同列の市民による支配であったし、産業革命とゲノムの
解析によってもはや神(自然)も克服され得るものと判断されていた
から。(少なくとも人間の側ではそう思っている)
人間は敵によって生かされるのである。その昔貴族たちは『ドン
・キホーテ』を読んで笑い転げたそうだが現代人はもはや彼を笑う
こともできない。自己の内でさえ行き場を失くした本能の矛先が正
に風車に立ち向かうが如く文明に向かうしかないから。(それで文明
はあんなに暴力的なんだ。人々に戦え、買え、捨てろと叫ぶ。付い
て来られない者は流行遅れで情報弱者、適応しすぎればオタクやヘ
イトスピーチと非難される。敵を求めれば自分が敵にされる。誰も
が敵を探しているから)
で、そこに示されたのが「テロとの戦い」。これが何を意味するか
もう察しはつくであろう。ニーチェやルソーそして僕はそれは必要な
いと説く。確かに反動は必要であるがそれは武力じゃないし他者に示
された敵でもない。各々が自己の生理についての知識を深めること、
そして客観視を習得すること。すなわち自己実現を果たすこと。私た
ちが人生を通して敵とするべきは自己に対する無知である。特に政治
に携わる者がそんな事すら修了していないのではお話にならない。
それでどうして人民を導くというのか。もう「彼らの」間に合わせは
要らない。反動を自らに作り出して自分への推進力にする。こういっ
た自己発電の方法を考えるべきだ。自己に向かう残忍さや支配欲や破
壊衝動は人間一般に存在するものと肯定した上でそれをポジティヴエ
ネルギーに変える動機づけを考える。例えばスペインの牛追い祭りや
イタリアのトマト祭り、またどこかの国では殴り合う祭りもあったか。
ああいう祭りは善い試みだ。そこに敵はいないしみんなが楽しみなが
ら本能を満足させることができる。そうだ、私たちの暴力性に敵は必
要ないのだ。誰かが悪いなんて言って問題が解決した例はない。そん
な事はもう千年もやってきたことだ。人類の存在を次のステージへ。
その構想として僕は女性の生理にスポットを当てる。彼女たちの内に
も男性と同じ残忍さが眠っているはずだがなぜ肉体的表現として現わ
れないのか。そこには女性にだけ起こる月経が関係しているのだろう
か。過去の哲学者たちは女性蔑視の時代背景と自身の劣等感の故に彼
女たちを考察してこなかった。これは現代人の職務である。
ともあれ私たちは今一度あの命題を打ち立てるべきなのかもしれない。
「人間はなぜ生きるのか?」
以上、総括を終わります。
この著作との出会いに感謝します。そしてこの人類が誇るべき知的財産を
共有することができたすべての方々に感謝します。
皆様の感動、また充足感が明日からの皆様の人生をより豊かで幸福なもの
にしてくれますように。
ではエンドロールとしてニーチェの名言をお楽しみください。
「なぜ生きるか」を知っている者は、ほとんど、あらゆる「いかに
生きるか」に耐えるのだ。
「この人生を簡単にそして安楽に過ごして行きたいというのか。
だったら常に群れてやまない人々の中に混じるがいい。そしていつも
群衆と一緒につるんでついには自分というものを忘れ去って生きてい
くがいい」
「自分に命令する力のない者ほど自分を命令する者を求める」
「世論と共に考えるような人は自分で目隠しをし自分で耳に栓をし
ているのである」
「君には人生の重荷が重すぎるというのか。それなら君はその重荷
をもっと増やさねばならない」
「樹木にとって最も大切なものは何かと問うたらそれは果実だと誰
もが答えるだろう。しかし実際には種なのだ」
「いつか空の飛び方を知りたいと思う者はまず立ちあがり、歩き、
走り、登り、踊ることを学ばなければならない。その過程を飛ばして
飛ぶことはできないのだ」
「人は孤独を味わうことにより己に厳しくなり他に優しくなる。い
ずれに傾いても人格が磨かれる」
「毎日少なくとも一回、何か小さなことを断念しなければ毎日は下
手に使われ、翌日も駄目になるおそれがある」
「人は、常に前へだけは進めない。引き潮あり、差し潮がある」
「忘却はよりよき前進を生む」
「過去が現在に影響を与えるように未来も現在に影響を与える」
「自分を破壊する一歩手前の負荷が自分を強くしてくれる」
「苦痛の中には快楽と同じほどの知恵がある。苦痛は快楽と同様、
生を保存する最大の力に属する。苦痛がこうしたものでなければそれ
はとっくに姿を消していただろう。苦痛が人を苦しめることはなんら
その反証とはならない。苦痛の本質はそこにある。私は苦痛の中に帆
を下げろという船長の号令を聞く。大胆な船乗りたる人間はあらゆる
種類の帆の操作法に長じていなければならない。さもなければ迅速に
対処する間もなくたちまち大海に飲み込まれてしまうであろう」
「大きな苦痛こそ精神の最後の解放者である。この苦痛のみがわれ
われを否応なしにわれわれの最後の深みに到らせる」
「脱皮できない蛇は減びる。意見を脱皮していくことをさまたげら
れた精神も同じことである。それは精神であることをやめる」
「われわれが不意にある事柄について問われた場合に思いつく最初
の意見は一般にわれわれの意見ではなく、われわれの階級・地位・素
性に付き物のきまり文句にすぎない」 ――民主主義の危険性
「ある程度までのところ、所有が人間をいっそう独立的に自由にす
るが一段と進むと所有が主人となり、所有者が奴隷となる」
「最も後悔されることは何か? 遠慮ばかりしていたこと、己の本
当の欲求に耳を貸さなかったこと、己を取り違えること、己を卑しめ
ること、己の本能を聞きわける繊細な耳を失うことである。こうした
自己に対する敬意の欠如はあらゆる種類の損失によって報復を受け、
健康、快感、誇り、快活さ、自由、不動心、勇気、友情が損なわれる」
「昼の光に夜の闇の深さが分かるものか」――分かるんだなそれが。
「善悪において一個の創造者になろうとするものはまず破壊者でな
ければならない。そして一切の価値を粉砕せねばならない」
「いい手本を示そうとする者は自分の徳に微量の馬鹿げたところを
添えなくてはならぬ。すると人は見習って同時にその模範を眼下に見
下ろす。これが人々の好むところである」
「偉大さとは方向を与えることだ。どんな河も自分自身によって大
きく豊かなのではなく、多くの支流を受け入れて進むことによってそ
うなるのである。あらゆる偉大なる精神についても同じことがいえる
。肝心なのは後に多くの支流が辿ることになる方向を示すことである」
「独創性とは何か。万人の目の前にありながらまだ名前を持たず、
まだ呼ばれたことのない物を見ることである。人の常として名前があ
って初めて物が見えるようになる。独創的人間とは命名者である」
「キリスト教道徳は奴隷の道徳、弱者の道徳である。生の拡大を妨
げ、本能の発揮を抑え、人間を萎縮させ、退化させる道徳である」
「儀式、官職や位階による服装、厳粛な面持ち、荘重な目つき、ゆ
っくりした歩き方、持って回った話し方など、およそ威厳と呼ばれる
すべてのものは実は恐怖心を抱いている者たちの偽装である」
「犠牲行為によって計画される道徳は半野蛮的階級の道徳である」
「どれほど良いことに見えても、「~のために」行うことは卑しく
貪欲なことだ」
「同情されたがる渇望は自己陶酔、しかも隣人の懐を傷めての自己
陶酔の渇望である」
「悪意というものは他人の苦痛自体を目的とするものにあらずして
われわれ自身の享楽を目的とする」
「軽蔑すべき者を敵として選ぶな。汝の敵について誇りを感じなけ
ればならない」
「みずから敵の間へ踊りこんでいくのは臆病の証拠であるかもしれ
ない」 ――まあそうだね。緊張からの逃避だ。ヘビに睨まれたカエ
ルは跳び上がったが故に食いつかれる。
「職業は生活の背景である」
「男たちは自分の職業が他のいかなる職業よりも大切だと信ずるか
自分で思い込ませる以外にその職業を持ち堪えることはまずできない」
「アメリカ人の息せき切った慌ただしい仕事ぶり、新世界の真の悪
徳は早くも感染によって旧ヨーロッパを野蛮化し、まったく奇妙な精
神喪失状態を蔓延させ始めた。すでに我々は休息を取ることを恥じる
ようになった。ゆっくりと熟考することはほとんど良心の呵責を伴う
ようになった。我々は株式新聞に目を注ぎながら昼食を摂り、時計を
手にして考える。絶えず何かを逃しはしまいかと思う者のように生き
ている。何もしないよりは何でもいいからせよという原理がすべての
文化の高級な趣味の息の根を止める」
「すべてのものを裸にして見ないこと、すべてのものに近づきすぎ
ないこと、すべてのものを理解し知ろうとしないこと、これは今日の
我々には嗜みの問題である。我々は羞恥心をもっと尊重しなければな
らない」
「数時間の登山は一人の悪者と一人の聖者をかなり似通った人間に
仕立て上げる。疲労は平等と友愛の一番の近道だ」
「ものごとを完成させるには才能や技量よりも時間による成熟を信
じながら絶えず進んでいくという気質が決定的な役割を果たす」
「理解するとは何か新しいものを何か古い熟知の言葉で表現しうる
ということに他ならない」
「母親は息子の友人が成功すると嫉む。母親は息子よりも息子の中
の自分を愛しているのである」
「私は隣人に対する愛を諸君に勧めない。私が諸君に勧めるのは
いと遠きものに対する愛である」
「自己侮蔑という男子の病気には 賢い女に愛されるのがもっとも
確実な療法である」
「結婚は、多くの短い愚行を終わらせる。一つの長い愚鈍として」
「真理は醜いもの」
「私は自分がショーペンハウアーを正しく理解したなどとは思わな
い。そうではなくショーペンハウアーを通して自分自身を少しばかり
よりよく理解することを学んだに過ぎない。私が彼に最高に感謝する
のはそのためだ」
