私たちの人生はさまざまな確定要素と不確定要素によって構成され
ている。そして諦める事とはしばしば不確定要素を取り除くことだと
考えられている――利益にならないことの多くがそちらに分類されて
いるとの判断から――。
人生のレールを滞りなく進むためには分岐点における選択をなるべ
く速やかに行わなければならない。私たちの住む社会は競争の連続で
あって残り物には福がないばかりか何も得られない事もしばしばだか
らだ。それに適応するために私たちは幼少期から常に合理的な選択を
迅速に行うための訓練を受けさせられる。成功率が五割の選択よりも
八割の選択をし、我流の開眼を目指すよりもレシピや指南書の通りに
再現する技術を磨き、駄賃をもらう条件で家の手伝いをする。子ども
に工作を教えるのに材木の切り出しから始める父親はほとんど皆無だ
ろう――森に住まう家族をおいては――。こうして彼らは子どもに完
成された要素、すなわちエースのカードを示して威厳を振るう。これ
は言い換えれば我々の人生は悉く手札をエースに変換すること――す
べてを予定された行動にすること――にその目的があると言っている
ようである。
・・・これは真実だろうか? 僕はまず人生が列車のように進んで
いるという点に疑問を持つ。繰り返して申し訳ないが僕は現代社会を
原始人社会の継続だと述べた。社会システムが文明の発達に見合った
進歩を遂げておらずむしろそれを脅威として萎縮、逆行、退化の様相
を示しているように思えるからだ。すなわち文明を動機付けとした社
会全体の「発達」がなされていないあるいは不十分なのだ。
いわば文明という強力な部族の侵入に対して何とか人権と権力を保持
している状態、または進歩に対する過剰な恐怖が確かにそこにある。
――話はそれてしまったが果たしてこの状態でも個人の人生または
社会の歴史は列車のように進んでいると言えるだろうか?
選ばれなかった選択肢が次々に我々の後方へ流れ去って我々の肩の荷
を軽くする――そのようなことがかつてあっただろうか。僕にはそれ
らがいつまでも我々の視界に残り続けてスイッチが押される時を待ち
続けているように見える。それ故我々は明日のことは分からないにし
てもかつて選ばなかった不確定要素についてはしばしば驚くほど子細
なビジョンを想像することができる。
「それは彼がその事を諦めきれずに絶えず考えているからだ」とい
う人がいるかもしれない。ならば日々のことは考えていないのですか。
日が昇れば自動で明日が来るから考えるのはそれからだという姿勢で
皆が過ごしているからなのですか。
確定要素についてはもはや考える余地はなく、不確定要素にのみ思
考を働かせているのだと言われればそうかもしれない。しかしそれで
は僕の問いは堂々巡りになる。なので僕の仮説へ移そうと思う。
私たちの人生は様々な確定要素と不確定要素によって構成されてい
る。それらは例えるなら反射神経を測定するボードのように配置され
ていて――規則性はこの際どうでもよい――我々の一日はこのボタン
の組み合わせによって決まる。そのボタンというのもビデオの再生ボ
タンのようなもので押されなければその要素が進むことはない。
その中には我々が合理的な思考をする時には敬遠されるボタンがい
くつかあるだろう。もっと極端な人ならそれを「自爆ボタン」と呼ん
で厳重な覆いをかぶせるかもしれない。そしてそのために彼らの人生
は環状線を走る列車のように見える。なぜなら彼らの選択はカーブの
位置や次の駅までの距離、ブレーキをかけるタイミングなどが予め頭
に入っている状態で初めて可能になるからである。全てが予知できる
行動であれば合理化が促進されても不思議はない。
そしてこれは我々が想像する進むという状態に値するだろうか。
・・・我々の人生はどうやら確定要素だけでは構成されていないよ
うである。選ばれなかった選択肢もまた私たちを成長、進歩させるた
めの重要な要素で諦めるべきはむしろ確定要素の方だ。これを切って
手札を入れ替えることによって私たちは環状線のループを脱出し、想
像された道を進むことができるのではないだろうか。
私たちがまず諦めなければならないのは諦めないという意思そのも
のである。合理性を弁護に付ければ私たちは諦められなくなる。しか
し諦めるべき物の選択を誤れば私たちは人生そのものを誤ってしまう
だろう――。
