10:22 8/2 ポイントに着く。
10:29 ヘリが取り付く。東から来て手前まで接近し、東南東へ引き返す。
10:30 墨パウロがリンク。1111111
10:37 ヘリが南から最接近して西へ。・・・また同じことの繰り返し。つまらない奴。
11:30~ わざわざカルトトラックが車では入りにくい所まで追ってくる。墨パウロの位置情報を見て後付けで仕事を作って。
12:09 ケムトレイル戦闘機が合流。
今週は個人より能力の劣る集団は必要かという話。日本人はつまらない事は悪という感覚が鈍いように思います。例えば僕はティックトックを面白いと思いません。それは単に自己主張する人が増えれば世界が楽しくなるならば学生達はSNSではなく文化祭や体育祭などの学校行事のことで積極的に発言するはずだからです。しかし実際にはクラスでその話合いが始まるとみんなだるそうな態度になり、リーダーや委員が企画や調整をやってくれることを望みます。あるいは家庭で夕飯は何がいいと聞かれて「何でもいい」と答えてやり過ごします。これをつまらないと感じるのは僕だけでしょうか。例えば日々メディアで流される大量の食べ物の情報から1つ選んで「〇〇のラーメンが食べたい」と言えば母親は「私にスープを8時間煮込めと言うの?ヒゲ生えるわ」「明日おっさんになってるかもしれないけどいい?」という会話が成り立ち、さらにこれを実行すれば「本当にやったのか母よ」と家族からの評価が上がるだろう。
さもなければ家族の方が普段から母の持つレシピ本をチエックしておいてまだ作っていない料理や前に上手くいかなかった料理をリクエストすればいいのです。クラスの出し物を決める際にもクラスの主役になりたくない(恥をかきたくない)といって非協力的な態度をとるのはクラスメイトとの繋がりが希薄だからであって普段から分け隔てなくクラスメイトを観察していればテーマは自ずと決まるはずです。学生はジェンダー問題を考える前にまず男女間の溝を埋めることが先決でしょう。楽しい生活や刺激のある生活は1人で創ることができませんので相手を観察して良さを引き出してやろう、主役にしてやろうという気持ちが必要です。試してやろうとか支配してやろうという考えで充実した生活を送ることは難しいでしょう。
しかしつまらない人は相手の利益や幸せを考えること(優先すること)ができません。社会や学校行事がつまらないのもその運営者が市民や生徒の幸せを考えていないからです。彼らは自分たちの利益や権力を維持することで頭がいっぱいで私たちに自由な裁量を与える余裕が無いのです。
これは裁判の判決にも見られることで、原告不利な状況で苦労して勝訴を勝ち取っても大体がそこで終わりで彼が主導して全国の加害者グループを各個撃破するという動きが起こることは稀です。世間がそれを認めないからです。人々は歴史的な勝利をあくまでも1つの事例、裁判内での出来事として片付け、これを契機に社会の進歩や浄化に努めるということを好まないのです。だからSNSでバズってもアプリ内の出来事、二次元の世界の人物以上の人になれないことが多いように見えます。テレビの評論家にしても彼らの職場や講演会では影響力を発揮しているかもしれませんが多くの人々にとってはテレビの中の人に過ぎず、政治や社会に影響を与えているという印象を受けません。それが僕にはとてもつまらなく見えるのです。個人が活躍するということはそういう枠から飛び出して社会に良い影響を与えること、そうやって見える個人が増えていくことが人々の希望になり、将来の可能性や選択肢を広げ、社会全体に深みを与えていくと考えるからです。権力を笠に着て、もしくはその後ろ盾を得て空っぽな自己顕示をする人や原稿を読むだけのリーダー、または流行の仕掛け人の真似をするだけのお利口さんなんてちっとも面白くありません。
断っておきますが、僕は団体行動が苦手ではありません。むしろ歯車になりきることが出来るが故にその連鎖による力の増幅を感じないことに違和感を感じてしまうのです。
そこには力が出過ぎないよう(無意識に)ブレーキを掛けている人間がいるとしか思えません。それは個人がSNSを使って啓発活動や防犯活動をすることに御用評論家たちが中傷だけをクローズアップして抑圧をかける行動に見られます。つまり社会には明らかに平和で安心な社会環境作りを阻止している人が数多くいるということです。だからヤクザに占拠された銭湯のような状況が作られ、人々はその隅で縮こまって頭を洗うことに慣れてそのニッチで居場所や仕事や利益を競い合っている。果てはその理不尽な競走に勝つためにヤクザの悪意に親和性を感じるものまで現れて異常な状況を維持しようと自ら盾になる。僕にはその双方に義憤と不快を感じてなりません。
統一教会の問題についてマスコミが(一般)信者を全く責めないのも信者たちはニッチで居場所を求めた結果でその選択は正しいと信じているからであろうし、その子供たちがカルトの影響下から免れられなかったのも仕方の無いこと、みんながヤクザ銭湯で縮こまって生きることが国民として正しい選択だと信じているからでしょう。しかし一般的な銭湯のルールでは刺青を入れた人の入湯は禁止ですし、自由や個性や人権というものはこの支配体制の枠を超えた先にしかありません。なぜ公共の場を反社会的勢力から取り戻して解放するという事を出過ぎた真似、過激な行動だと考えるのですか?彼らは私たちの生活や活動範囲を圧迫することで反社会的人間になるよう故意に追い込んでいるのですよ。それは彼らが自身の反社会性や適応障害を後天的な環境のせいだと信じたいからです。こういう時こそ健全な市民は多数決を主張して私たちはあなた方とは違うとはっきり主張するべきではないですか。人な悪に染まるのは個人の意志の問題です。僕一人にも勝てない集団に依存して集団リンチに自己効力感を求めるつまらない人間だから悪に染まるのです。集団が個人より能力が低いことに何の疑問も感じずぬるま湯に浸かっているから馬鹿になるのです。能力もないのにコストばかりかかる厄介者の自分たちを戒める気持ちが起こらないから迷惑や妨害や破壊や自堕落な生活に明け暮れてしまうのです。こういう人はこれを不公平とは全く感じないのでしょう。集団より強い個人が同じだけの資金や権限を持つ方がずるいと考えるのでしょう。だからヤクザ銭湯から抜け出せないのです。
子どもの人生を破壊することに懲役刑を課して反社会的人間に育つのを抑止する法律を作ってはどうか。健全な市民は公共性を失った人を追放するのが常識です。子持ちニートに犯罪行為や集団リンチで家族を養えばその子供も犯罪者になるのは当然です。これを回避しないのは未必の故意というもので市民としての努力義務を怠っています。また警察に協力しろと脅されても「責任を取れません」と言って断るのはその人の戦いであるのにこれを放棄して被害者に責任転嫁するのも公共性の欠如です。こんな状態を放置しているから地域社会が腐敗して若者たちは夜の街に居場所を求めなければならないのです。そうして公共性の高い僕の仕事や主張を認めず、感情をこじらせて故意にこれを無視し、かつ敵視して私情と悪意に満ちた犯罪組織を税金や上納金で養っている。
日本書紀も嘘の記述で溢れていて日本社会はこの議論を避けて通れないのに文部科学省や宮内庁や教科書屋などがそれを抑圧し、為政者のための歴史観で国民を欺き続け、学者や官庁の職員たちも彼らとの戦いを避け続けています。ために悪党は増長してますます嘘と罪を塗り重ね、その費用も増える一方です。それぞれが自分の戦いをしないからそうなるのです。
そもそもやってみろとしか言わない人に話を通さなければ企画が進まないような社会は民主主義ではなく戦国時代です。しかし戦国時代を見返してみればこのような武将気取りは経済発展の申し子ではなかったことが分かります。それどころか自分の地位を守るために国民の財と労働力を略奪して生きぬよう死なぬようの生活に放り込み、思考停止状態/洗脳状態に置いてきただけです。そして彼らの洗脳に屈することなく人生を考えた人が産業や様々な技術を発達させてきたのです。このことからも公共性を欠いた人は社会に置くべきではないことが分かります。
自己の決断を放棄した人が罪を犯す。これはセオリーです。市民はいい加減これに対策を講じて人生(時間)泥棒を取り締まらなければなりません。
自分の人生と正面から向き合ってきた人は人生の転換点を感じることができ、頑張ってきた人は誰であれこの時に目一杯輝くべきだし、悪さをしてきた人をスパッと斬り伏せてやるべきだという哲学や美学を持っています。これが出来ない人はこれまでの人生で自分に対して賞罰を与えず無感動で薄っぺらい人生を送ってきたものと僕は判断します。そしてそんな人達に人生を潰されるなと若者を励ましたくなります。
誰が何と言おうと正しいのはいつでも素直な人です。嘘や過ちを正さない人は皆でダンスを揃えなければいけない時にいつまでも振り付けさえ覚えてこない人と同じです。彼らはただ人並みの努力を放棄しているだけ。怖いとか格好悪いというのは言い訳です。人に迷惑をかけても排除されないと高をくくっているから他者を侮るのです。素直な人は他人に迷惑をかけないために努力するのではなくそれが今の自分を形作るものだからそれに真摯に取り組むのです。多くの人は自分は完成された人間で普遍の存在と信じています。韓国ドラマを見るとそれを顕著に感じるのですが、日本人はそもそも表情や感情表現が乏しい上に同じ表情や感情を維持したいがために言動を寄せに行っているのではないかと思うことがよくあります。それは赤ん坊が保護者の育児本能を掻き立てるための戦略を採用しているのかも知れませんが、大人は成長しないので面白みがなく、同じであることが逆に鬱陶しく感じることの方が多いのです。缶にへばりついている人はいつまでも鬼のままです。なぜそんなに鬼でいたいのですかと僕などは思ってしまいます。
「簡単」とは選別して単純化されたもののことだとすると複雑さとは単に選別がなされていないこと、あるいは不十分な状態を表す言葉になります。したがって「この問題は複雑だ」というのは矛盾した言葉(感じ方)で取捨選択を躊躇している状態にすぎません。そして複雑さの中に別の答えや妥協案があると期待して相手にこれを投げかけるのです。言い換えれば我々が失脚しないで済む方法を考えろ。そんなものは複雑でも何でもないし、問いかけられた方が躊躇するとすればそれは脅しです。要らないものを切ればあらゆる問題は簡単になります。また記録して閉じるという最もシンプルで基本的な道具の使い方を実践すれば同じ過ちの繰り返しは許されないはず。被害者も記録を見て「馬鹿なことをして」と鼻で笑う以上のストレスを同じ過ちから受ける義務はありませんし、そんなつまらないやつに付き合ってやる義理もない。「本を読め」という言葉が魔除けの呪文になるような社会を作りましょう。
社会的手抜きを克服してそれぞれに一人分の努力義務を課すことは何も恐ろしいことではありません。


コメント