まとめてつぶやき934 心の梅雨を吹き飛ばせ

まとめてつぶやき

心の梅雨を吹き飛ばせ!

9/8

8:14~ 墨パウロ111111111111111111111111111

戦闘機11111

ケムトレイル戦闘機11111111111

11:50~ ケムトレイル戦闘機が足裏痺れレーザー開始。毎回おなじ。寿命が尽きてるからだ。

まだ甘やかすのか、徒歩や自転車の速度に合わせてトロトロついてきて何の根拠も示さず駄々っ子のように唸るだけの地縛霊を。

 欽明天皇13年10月条と敏達天皇14年2月条に記された疫病の症状「若死」と「身が焼かれ打たれ砕かれるような痛み」を見てこれを単純に天然痘で片付けることに違和感を感じたので調べてみた。まず「焼けるような体の痛み」で検索をかけて出てきたのは帯状疱疹でこれは肺炎の一症状であることが分かった。ここに第一印象で推理した「カビによる肺炎死」を重ねて肺炎を調べてみると5歳未満の死亡率の15%を占める病気と分かった。肺炎が高齢者の病気というのは日本だけで世界一般では若年層がかかりやすい病気とされている。

 カビの原因はもちろん藤原京が湿地の上に造られたことで疫病の流行が顕著な畿内、西海道(九州)、東海道はすべからくかつて海・湖・沼地があった所であった。

九州の古代地図
畿内の古代地図
関東の古代地図

湿地は居住に適さないだけでなく古代においては農業にも適していなかった。それは水量のコントロールが不可欠だからである。田んぼの整地に必要な作業のひとつに「代掻き」があり、これは水に浸けた土を砕いて粘土質を分離させ、丁寧に混ぜ合わせ、それをしっかり踏み固める作業である。これを2回以上やるのが通例で不十分だと稲の生育に支障が出るだけでなくカビ由来のいもち病や紋枯病の原因または水漏れによる干ばつの原因になる。現在は重機があるので踏み固めが不十分という事は起こり得ないが古代には牛馬を代掻きに使えた人は限られていたし、その意図を理解して行わなければやはり十分な効果を得られなかっだろうから農家の技術及び知識不足も不作の原因の一つであった。加えて森林伐採と過放牧も干ばつの原因であるから土器や鉄製品作りと農業の相性が悪かったことも彼らにとって不運であった。

 もう一つ凶作の原因としては堆肥の問題があり、堆肥中の窒素量が多い(C/N値が低い)と根の発育不良や土壌病害を引き起こす。そしてこの窒素量はタンパク質に由来する。だから昔の人は「コメの栽培期間に肉食すると稲作に失敗する」と信じ、肉食禁止令さえ出した。

こうして満足にご飯を食べられず栄養失調が慢性化すると免疫力が落ちて罹らなくてよい病気にもかかり易くなってしまう。豊作年にあたって一時的に栄養状態が改善されると疫病の流行が止んだという事実と天然痘はインフルエンザと同じ時期に流行するので夏場の疫病は別の病を考えなければならないという事から全てを薬で治る病と安易に結論づける考え方には承服できない。

湿度が高い所にいると体の発汗機能が低下して代謝が悪くなり血液循環が滞り体が冷えることになる。そして体内に水分や老廃物が溜まるとまず頭痛や肩こりなどの初期症状を感じ、続いて食欲不振、熱による体力の消耗とだるさ、めまい、立ちくらみ、車酔い、悪心、嘔吐、熱中症、むくみ、冷え、下痢、不安感、不眠などを発症する。さらに副交感神経が優位になると上記の症状の悪化と胃酸過多、動悸、憂鬱が追加され、急激な温度変化によるストレスや自律神経の乱れに対応できずに外出を嫌うようになる。(極端なインドア派やニートの原因、室内の方が湿度が高いこともしばしば) ちなみにカビは食べても食中毒にさえならないそうだが多量に吸い込み、肺の中で増殖すること、すなわち炎症を起こすことによって私達は健康を損なう。日本人の3人に1人が帯状疱疹を発症し、東京など湿気の籠りやすい設計の都市で花粉症などのアレルギー体質を持つ人が多いのは古代からの課題がクリアされていないことを表している。つまり古代から悩まされ続けた凶作と疫病のデッドコンボは人災であったと見ることが出来るのである。五月病や夏バテ、ひきこもり、じめじめした性格なども湿気が原因であろうし、私は子どもの視力低下もここに含まれるのではないかと考える。(後天的な失明の原因は天然痘といわれている)

ここから少し話はずれるが、例えば真菌性眼内炎は何らかの原因で真菌が目の中に入り炎症を起こすもの。炎症が悪化すると視力が低下する。疲れが目にくる人は炎症を疑った方が良い。ここで言う真菌はカンジダのことである。カンジダはヒトの体表や消化管や女性の膣内に普通に生息する菌で一度感染すると生涯神経節細胞に潜伏し、体調が悪くなると体のあちこちで悪さをする。原因はビタミン欠乏症と悪玉菌の増殖、そして性交による感染である。人類が半永久的に悩まされる病原体のひとつと言え、各種の難病はこれが悪さをする部位によって決まるのではないかと思われ、膠原病などの自己免疫病に及ぶと遺伝性さえ獲得する。(・・・女性の気分にムラがあるのもカンジダの影響か?)     

水疱瘡を起こしたヒトヘルペスが起こす目の病気は角膜ヘルペスで発熱、紫外線刺激、ストレスをきっかけに目を覚まし、角膜に移動して炎症を起こす。抗ウイルス薬を点眼しても何度も再発するという。あと池や沼などに生息するアメーバによるアカントアメーバ角膜炎ぎ近年アメリカで激増しているという。原因は不潔なコンタクトレンズの装着による感染でその代償は夜も眠れなくなるほどの目の激痛である。

試しに7歳ないし9歳までの視力の発達が止まるまでに抗真菌薬(ジフルカン)を投与して視力回復が見られたら表彰ものの発見だろうが私は医者ではないので検証ができなくて残念だ。注意事項としては水疱瘡にかかった後から治療を始めること。大人になってから帯状疱疹にかかると死ぬまで激痛に悩まされることがあるらしいので。

 ・・・このように深く考えれば原因や解決策が見えてくる問題は五万とある。それを無視して原因を自分以外に求めて逃げ出したり一揆を起こしたり、それを扇動するカルト集団を野放しにしたりするのはコメの流通量を抑えてわざと飢饉を起こすのと同じ位の悪である。湿気とカビに冒された頭では物を考えられないというなら国会議事堂を疫病の発生が少なかった北陸地方にでも移転すれば良い。人災による死は平等な死ではないという認識を持つべき。

 ・・・何をのんきに100も200も病名を作って面白がってんだという話だよね。ストーカーでもオレオレ詐欺でも半グレでも指定暴力団でも名前を付けるやつは明らかにその存続を望んでいる。

 カンジダは死の時限装置。感染した瞬間から死へのカウントダウンが始まる。だから自ら前頭葉を麻痺させたり自律神経を乱し免疫力を低下させる犯罪行為は自殺行動だと言うのだ。彼らは現在犯罪行為による報酬を得ているから犯罪をやっているだけで自殺で保険金が降りるようになったら間もなく自殺か子殺しに切り替えるだろう。彼らは懸賞金がかかった人なら誰でも攻撃する。言い換えれば買収されれば人殺しでも自殺でもやる。タダで死ぬのが損だから嫌々生きているだけだ。これをエコノミック・アニマル/拝金主義という。

 ITが生活を豊かにするというのは誇大広告だと思う。重要なのは情報の質であって入力者の質が悪ければ憎悪や悪意や貪欲の拡散にしかならない。ITで豊かさを語るならまずあなたは拡散するほど有益な情報を持っていますかということを問わなければならない。私の観察によれば情報収集に明け暮れている人は性格が悪い。

 誰にでもこれに対しては嘘をつかないというものがあると思うが、私は人生にだけは嘘をつかないと決めたから自分の能力に見合った職業と待遇と財産を要求する。他人に私の人生を欺かれる筋合いはない。

 ―――さて、日本書紀の解説を進めよう。

 聖徳太子は蘇我馬子らに暗殺された?

推古天皇18年に秦河勝が登場するとにわかに宗教関係の記述が賑やかになり、推古天皇20年正月7日条には蘇我馬子が神道(賀茂氏=葵祭?)に接近した様子が描かれている。恐らく長岡京以前の京都が秦氏らの入植と治水により発展し始めたのを見てここへの進出の足掛かりとするために彼らの対抗勢力であろう賀茂氏に接近したと考えられる。ちなみに孫の入鹿は唐で学んだ遣唐使が開いた私塾で中臣鎌足と共に学び、この悪友の影響で反聖徳太子・山背大兄皇子父子の思想を持った。ぽっと出の賀茂氏の一族が天皇の側近の地位を得られたのは蘇我氏の後ろ盾のおかげであり、もしかすると鴨蝦夷とは蘇我蝦夷のことではないかと思われる。ともかく「(舒明)天皇」は蘇我氏のことを「真蘇我」(真は道家で「欠け目なく充実した状態」を示す語)と称えて歓迎した。

推古天皇21年11月 京へ至る大道を敷く。

推古天皇22年8月 蘇我馬子が病に臥し、男女千人が出家して彼の回復を祈った。→下鴨神社に献上した?

推古天皇24年 桃李が実をつけた。―――「桃李」には「自分が推薦した人物または兄弟のたとえ」という意味がある。また「桃李言わざれども下自ずから道を成す」は立派な人のもとには自然と人々が慕い集まってくるという意味で、天皇の徳を慕って帰化してくる人々を表し、舒明天皇即位に向けたクーデターの始まりを示唆している。

25年6月 出雲国が五穀豊穣と神戸郡に瓜が実ったことを報告。―――瓜時(かじ)という言葉には「役人の任期が満ちて交代する時期」という意味がある。

推古天皇28年 聖徳太子と馬子大臣が共に『天皇記』『国記』及び国民台帳を作成する。―――有力な帰化人に永住権を認める手続きか。

推古天皇29年2月5日 夜中に厩戸皇子が死去し、国中が泣いた。彼の師の高麗僧恵慈はこうなっては生きている意味が無いと言って翌年殉死した。『帝王帝説』にはこの年の年末にまず太子の母が亡くなり、翌622年2月21日に夫人が亡くなり、その翌日に聖徳太子も亡くなったと記し、彼らの死は毒殺であったと推理する人もいる。その死の不自然さは死後の扱いに表れている。まず太子を供養するために平安京以前の葛野に広隆寺を建てた秦河勝という男は神道や道教の信仰者で太子の敵、その寺に蘇我馬子は百済から贈られた弥勒菩薩の石像を寄進し、仮の本尊として安置された。・・・この石像は1158年に飢饉に窮して藤原鎌足を本尊とする妙楽時に売り払われた。本物の国宝の弥勒菩薩像(赤松製)は翌年に 新羅(羽田氏=秦氏)が葛野の秦寺に奉納したもので、任那(蘇我馬子)はこのとき金塔、舎利、大灌頂幡を四天王寺に奉納した。ちなみに四天王寺には後に物部守屋が祀られることになる。こんな不自然なことはない。法隆寺の若草伽藍も焼失したと見せかけて位置と方位を変えて再建されたとの情報があり、聖徳太子所有の寺はこうして彼らに接収されていったのである。そうなると用明天皇2年に中臣勝海が呪いをかけるために作ったという彦人皇子と竹田皇子の像も実は聖徳太子の像だったのではないかとの疑いが出てくる。法隆寺の聖霊院には本尊として聖徳太子像が安置され、他に恵慈法師や麻呂子王、山背大兄王、殖栗王(えぐり)の像も造られているからである。

ともかくせっかく追い出した羽田氏や応神の子孫らユダヤ人(鳥族、天狗)を政府の中枢に再び引き入れたのは聖徳太子ではなく蘇我氏だった。畿内の豪族全員が渡来人なら4世紀以前の日本には国がなかったのかという思いから蘇我氏を原住民族の砦と考えてきたが、ここへ来て最後の砦も朝鮮勢力に服してしまった。彼らはただ他人が開発した技術や学問をコピーして日本に持ってきただけで開発者または主唱者本人ではないのだが何故そんな奴に服従してしまうのか理解できない。ただの著作権侵害者じゃないか。戦い抜けなかった日本人には大いに不満がある。

推古天皇も暗殺された?

続いて推古天皇31年の記事には2つの出来事が混合されている。1つは623年の新羅が伽耶を討つという史実であり、この事件は結局新羅が日本に賄賂を贈って伽耶併合を承認させることで片が付いた。

 もう一つは舒明天皇擁立派によるクーデターの実行である。そのメンバーには境部臣雄摩呂、中臣連国(くに)、河辺臣禰受(ねず、羽田氏の下僕)、物部依網連乙等(おと)、波多臣広庭(祖は武内宿禰)、近江脚身臣飯蓋(いいふた)、平群臣宇志(うし)、大伴連、大宅連で、ここで言う「新羅」は推古天皇が居た小墾田宮(飛鳥寺の北西、羽田氏の縄張り内)である。

そしてここでクーデターが成ったのでこの後の記事は要らない情報しか載ってない。

32年10月1日 馬子大臣が推古天皇に葛城円から接収した屯倉を返して欲しいと請願す。―――これは蘇我氏と推古天皇の決別、神道に傾きつつある蘇我氏への牽制を記した条である。

34年正月 桃李花咲けり

5月20日 蘇我馬子死去

36年3月6日 臨終の前日に推古天皇は田村皇子(敏達天皇の系列の子)を後継者に指名し、山背大兄皇子には「思うことがあっても道理を説かず群臣の言うことを聞きなさい」と遺言した。これも有り得ないことだし、同じ手口は日本武尊をフェイドアウトさせる時にも見られる。(狂言を吐くと死ぬ) また田村皇子の父押坂彦人大兄皇子は生没年不詳で実在しない可能性があり、推古天皇が遺言で合祀してくれと頼んだ竹田皇子も実在が怪しい人物。そして2人の共通点は中臣勝海が像を作ったことだ。彼らが実在しなければ推古天皇の遺言は全く意味をなさなくなる。では田村皇子とは誰か?出雲国から連れてきたのか?

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