まとめてつぶやき1033 私たちはどのようにして自然な感動を取り戻すか

7/24 水曜日

7:46 レポートの作成を開始。サイバー攻撃によりフリーズ現象が起こる。

7:43~/8:50~ 偽軍人うなる。苦労しろ悪霊め! 1111

8:05 視覚でブロアーを鳴らす子飼いのチンピラ。

8:50 雨予報なので屋根がある場所へ移動。

9:01,:41 ヘリが取り付き、スマホにロックオン。

同 神社の管理者が接近。

手応えありと感じたが今週もそれが表面化することはなかった。この国には大人がいないので誰もワンダーランドから出ようとしない。どう見ても私に主導権を移して無秩序な状態を正すべき場面だけどな。日本人は私がフィギュアスケートの話をしてもサッカーと話をしても恋愛や教育の話をしても気に入らない、私がすること為すこと全て気に入らないんだ。私はただの共感覚の持ち主で世界を有体に見てつまらない、話が合わないと思うから上手く人の輪に入れなかっただけで隣人の殺人鬼、サイコパス、ジャンキー一族の方が明らかに人外の存在で、彼らの組織犯罪は米軍や警察の権力やユダヤの知識と技術力をもってしても共感覚の持ち主には敵わないという現実を突き付けただけ。私を特別な人間にしたのは周りの態度であって調べてみると知恵が遅れているくせに勉強もしない、忠告も聞かない、前進を封じられても抵抗すらしないという。それで私が悪者扱いされるなら言葉が通じない世界に来てしまったと思うより仕方がないではないか。文明のレベルが違うのだと。優れているせいでリンチに遭い、勉強するなと町ぐるみで脅され妨害されるなんて初めての経験だ。(前世も白い魂で終わっているので2度目かもしれないが) 歴史修正「主義」って何だよ。勉強や研究を進めていくうちに間違いを見つけたらこれを修正するのは当たり前のことでこれを妨害するのは学問に対する冒瀆だ。世界を都合よく解釈して見ている多数派が間違えているのは明らかだ。物的証拠を軸とする司法制度も法律も革命政府や植民者の解釈に過ぎず自然な法ではない。法律やルールとは皆が意識しないで自然に共有できるもの(センス)であって自分に都合の悪い他者の言動を疑って合法か違法かと考えること自体が違法行為なのである。為政者による恣意的な法律の制定は言うまでもない。そこの前提が崩れているから彼らはやりたい放題になるのだ。男の子は母親から無視されれば迷惑行為や悪戯をやめるというが犯罪者や権力者はクマと同じく放置すると行為をエスカレートさせるだけ、退屈しのぎや注意を引くためによりリスクの高い行動に移行するだけである。そうして世の中が祭りの出店みたいに注意の引き合いになっているから全体の視野が狭くなる。私と同じように世界と現実を見つめれば共感覚が開くかもしれないのに人々は自らそれを閉じている。嫉妬というのは自分がしなかったこと、できないことが出来る人に対する憧れと嫌悪が入り交じった感情であるがそこには後悔に対する自己防衛行動を含むと思う。承認欲求やこの世のスター制度も自惚れで世界が変わるという神話から生じた世界観でこれもまた都合の良い解釈である。私はこの偏見と戦わねばならない。

 さて今週のテーマですが、『関ジャム』や『クラシックTV』の音楽論は無害で面白いので私もそういう「明るい」ネタがひとつ欲しいなと思い、人が感動するメカニズムを調べてみようと思ったが「〇〇万人が泣いた!」という帯が付いた本や映像作品を見てもちっとも感動しないので出鼻をくじかれてしまった。そもそも私は登場人物を死なせたり病気にすることで安易に感動させようという魂胆が気に入らない。これを素直に受け取れる人は献身的に保護される様に共感して泣いているのであって自分のために泣いているのだ。つまりエゴ。自分の満たされない欲求を叶えられた人を見てそれに共感、投影して泣いている、それは私のイメージする「感動」ではない。

 ・・・私が『101回目のプロポーズ』を見て泣いたのも一方で自分の感情を抑え、他方で自分の感情を優先して人に優しくできなかったり愛情に応えられなかったりした時に武田鉄矢さんが浅野温子さんの心を溶かそうと真剣に愛を伝えている姿に感動したからで私は女性側に共感していた。これも自分勝手な感動である。表現者になって普遍的な感動を追求してきたつもりでも本屋に行くとやはり自分目線で「良い物語」を物色している。この殻を破れないものか。

感動とは緩和であるからストーリーが不可欠で自分自身または主人公または選手が抱えている緊張をトレースしてそれが解消される瞬間に立ち会わなければ感動は生まれない。かと言って相手の緊張の原因を示してそれを緩和させる策を提示すれば人の心を動かせるかと言えばそうならない。不満足な環境や不安的な立場によってやる気を作り出している人がいるからだ。それによって報酬を得ている人や頑張らなくてよいことに安住を見出していることもある。本棚の知識を借りると目の前の問題を解決するとき脳は思考系に傾いているが、これを回避する人は感情系に傾いている。感動が思考系に属する現象ならば感情系優位の人を感動させることは出来ない。また感動をドーパミンの分泌として捉えるならば普段からゲームや学習やトランス音楽などでドーパミンをドバドバ分泌している人を感動させることも容易ではない。自分の子は何をしても感動するが乳母車を押す母子を疎ましく思うのも些細な想定外な出来事や否定の言葉に傷つくのも感情系優位の人の自分勝手な反応である。

 死と降伏を拒む大人たちによって前進することを許されない世界で病気からの回復や非行からの更生などマイナスからゼロへの動きと金儲けの追求にのみ前進が認められるから人々はこれらに惹き付けられる。前進を願ってしまった人に生きる術はないので人々は繰り返しの日々に順応するためSNSからとにかく新しい人やものを自分の空間に取り込むことでヴァーチャルな変化を楽しむことに甘んじている。ネットショッピングで衝動買いする人も冷静になったらそれほど欲しいものではなかったと後悔することがままあるらしいが、彼らはその時確かに心を動かされたとしても感動ではないだろう。今の世で自然に見える感動は女子や子どもの悔し涙くらいのものか。

 子どもに我慢を教えるのもこの退屈な世界に盲信的に従う人は組織に歓迎されていい思いをすることができるので出世したければ目上の人や偉い人に逆らうなと言いたいのであるが、その反動として若者たちは街中をヘッドフォンを着けて歩き、景色や他者に関心を示さず、退屈しのぎに自分を追い込んだり痛い目に遭おうと犯さなくてよいリスクを犯したり苦労を背負い込む行動に出る。それが金儲けになるというので政府はこれらを歓迎しているが、はっきり言って緩やかな自殺である。

 認知症の人は時間の概念を失うそうだが、彼らは同じことの繰り返しにより日常のあらゆる行動が無意識的行動に分類されてしまい覚えていられなくなるのではないか。窓の鍵やガスの元栓の閉め忘れは意識に残りにくい行動ゆえに家を出てから忘れたかもしれないと気になってしまうが、その頻度が増え、気にならなくなった状態が認知症。昨日何食べたか、1週間前に何を食べたかというのも日々に退屈を感じていたらいちいち覚えていられない。歴史の年号を覚えるのに語呂合わせをするのも記憶に残りにくい数字を言語化することで記憶の定着を助けていると考えれば日常の行動に言語化することがない(その場しのぎである)、または嘘をついたり自分や他者を欺いて生活していればそれを覚えていなくても当然ということになる。生命の危機を伴わない過去の数字や記号など重要な記憶ではないからだ。ただ男はそんな無駄な数字を更新しようとして無駄なリスクをかけるが、女性はそれをしないので認知症になりやすいのかも知れない。―――こんな所にも「真面目な人が損をする」という不文律、社会構造の弊害が表れている。しかしこの対策は「刺激を求めよ」ではないはずだ。

 現代人はどのようにして自然な感動を取り戻すか。

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