ニーチェ著『道徳の系譜』 第二論文について

第二論文 「負い目」・「良心の疚しさ」・その他

その広大無辺な大地の隅々まであまねく生命を抱き留めている我ら
が母なる自然にとって人間は単なるかんしゃくを起こしやすい多夫で
はなく他の卑しき子らと等しい人間獣であり、彼女の使命は我々を
「約束をなしうる動物」に育て上げる事であった。
ただし他の兄弟より若干優れた資質を持って生まれた人間は彼ら卑
しき兄弟姉妹たちの長男として母の教育を積極的に吸収するとともに
躾けられた以上に母を助けて卑しき兄弟姉妹たちをも導かなければな
らない。

では「約束する」とはどういう事か? それは未来を予め処理する
事である。そのために人間はまず必然的な生起(事件・現象などが起
こること)を偶然的な生起から区別してそれを因果的に考察する能力
遥かな未来の事柄を現在の事柄のように観察し予見する能力、何が目
的であり何がそれの手段であるかを確実に決定する能力、要するに計
算し算定する能力の習得が不可欠である。そしてその習得には二つの
能力が必要だ。一つは言うまでもなく「記憶」能力、それも能動的な
記憶、一旦意欲したことをいつまでも継続しようとする意志による記
憶がそれである。その場しのぎの空約束ではお話にならない。

もうひとつは健忘である。健忘とは一つの能動的な、厳密な意味に
おいて積極的な阻止能力のことで我々の意識下において毎秒繰り広げ
られている喧噪や闘争(生命維持や肉体活動を司る相互的な器官の働
き)との間に一枚の扉を設けてそれを一時的に閉鎖することにより、
表層の意識が新しい体験や新しい経験を受容れたり、より高級な器官
や機能(心的秩序、安静、礼儀、愛憎、直感、反射、トラウマ、葛藤
ためらいなど)を駆使したより人間的な活動に従事したり、また自己
統制や予測や予定などの客観的な視野を要する事例を処理する事が出
来るようにするものである。この機能が無ければ私たちには何の幸福
も快活も誇りも、また何の現在もあり得ないだろう。そしてこの阻止
機能が破損したり停止した人間は何事にも「結着を付ける」というこ
とが出来ない。

こうした能力を持って人間はまず一個の約束者となる。それから種
族全体が長男の役割を果たし得るように人間を規則的な、同等者の間
で同等な、従って算定し得る一群にまとめるという課題へ移行する。
それは普通風習の道徳と社会の緊張によって進められるがその反動と
して独裁者を見出した時、作業効率は飛躍的に上昇する。
風習の道徳から脱却した彼はもはや自己自身にのみ等しく独善を保
証された確固たる自立心と超倫理観を持ち合わせる真の自由民、真の
権力者である。彼だけが「責任」という異常な特権についての誇らし
い知識を持ち、自己と運命とを制圧する術を心得る。その力を持って
ついに彼が兄弟やより信頼しがたい同胞たちの支配に着手する時、た
とえそれがどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを含んでいるに
せよ、彼は多くの信頼、多くの恐怖、多くの畏敬を獲得するだろう。
なぜなら苦痛を与えることを止めない者のみが記憶に残る」からであ
る――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理
学の根本命題である。
(約束を健忘させないための苦痛が治安維持と結び付けられている)

人間が自己に記憶させる必要を感じた時、血や拷問や犠牲無しに済
んだ試しはかつてない。最も戦慄すべき犠牲と抵当(初子犠牲など)、
最も忌まわしい毀傷(きしょう。痛め傷付ける事)(去勢など)、あらゆ
る宗教的儀礼における最も残忍な法式(従ってすべての宗教はその根
底において残忍の体系である)――これらはすべて苦痛のうちに記憶
術の最も有効な手段を探り当てたあの本能から来たものだ。

ある意味では禁欲主義の全体がこれに属する。その目的はこれらの
「固定観念」によって神経と理知の全体形に催眠術をかけることにあ
る――そして禁欲主義的な手順や生活形式はこれらの観念を自余(じ
よ。このほか。爾余とも書く)一切の観念と切り離してそれらを忘れ
がたいものにするための手段なのだ。

人類の記憶していたものが悪いほど人類の習慣はいよいよ恐るべき
相貌を呈する。わけても刑法の峻厳さは健忘に打ち克つためにまた社
会的共同生活の若干の原始的要件(苦痛による恐怖)を一時的にでも感
情や欲求の奴隷になった人々の脳裏から閉め出されないようにするた
めに人類がどれほどの労苦を費やしたかということに対する一つの尺
度である。そしてそれはドイツ人の古い刑罰によく表れている。
例えば石刑(石臼を罪人の頭上に落下させる罰)、車裂きの刑(四肢
を車輪に連動させたロープにつないでハンドルを回し、四方に引き伸
ばす刑。ドイツ人による創意で十八番)、杙(くい)で貫く刑、四つ裂
き(馬に引き裂かせたり踏みにじらせたりする刑)、犯人を酒や油の中
で煮る刑、人気のあった皮?ぎの刑(革紐作りとも呼ばれる)、そして
胸から肉を切り取る刑(シェイクスピアの『ヴェニスの商人』にて富
裕なユダヤ人シャイロックがキリスト教徒の商人アントーニオ―に対
し借金の形として要求した刑)など。これらは城の地下の拷問所やある

いはしばしば公衆の面前にて見世物・娯楽として執り行われた。そし
て人々がこうした光景を記憶し戒めとする事によって「我欲せず」の
境地に入り、ついに「理性」にたどり着いたのである。

――しかしこれにも当然あの「反動」が生じる可能性は十分にある
。その最も卑近なものは正に犯罪者自身が裁判や刑の執行を体験する
中で生まれる。というのも犯罪者は自身が非難され咎められた行状と
まったく同じことが警官や検事たちの手によって正義のために行われ
ているのを見るからである。つまりは探偵、奸策(かんさく。人を陥
れるための企み)、買収、陥穽(かんせい。人を陥れる策略、罠。)、
それからまた諸種の刑罰に際立って示されているような褫奪(ちだつ。

無理に取り上げること、剥奪)、圧制、凌辱、監禁、拷問、殺害など
感情によっては許されないが原則としては認められる非人道的な行為
の全てが彼の裁判者たちの手にかかれば処罰される事なく利用される。
受刑者がこの矛盾を目の当たりにして自身の罪を悔いたり負い目を
感じたり良心の疚しさを感じたりする事を求められても土台無理な話
だろう。
そしてそれが積もり積もってスパルタクスのような反乱や革命が起
こる時、罰せられてきた者、その恐怖に打ち震えてきた者たちは同じ
手段を持って執行者を罰するのだ。今や犯罪の正当化のみを行って。
しかし罰すること自体を取り締まることは理論上できないため執行者
(権力者)もいつ領民から罰せられる日が来るか知れないと常にビクビ
クしていなければならない。そしてその恐怖を打ち消そうと領民の締
め付けを強化すればそれだけ運命の日を近づける事となる。
・・・「理性」ねぇ。疑似独裁者の増産でしょ)

「犯罪者は刑罰に値する、何となれば彼は別様に行為することも可
能であったが故に」という思想は人間が極めて後になって手に入れた
じつに精妙な判断と推理の形式である。人類史のきわめて長い期間を
通じて悪事の首謀者にその行為の責任を負わせるという理由から刑罰
が加えられたことはなかったし、従って責任者のみが罰せられるべき
だという前提の下に刑罰が行われたことも無かった。――むしろ今日
でも両親が子どもを罰する場合に見られるように加害者に対して発せ
られる被害についての怒りから刑罰は行われたのだ。更にこの大元と
なるのは「すべての損害にはそれぞれに見合った等価物があり、従っ
て報復は可能である」という思想であった。これはまた債権者と債務
者の契約関係と一致する。

人間は本来価値を査定する動物として自らを特色付けた。それは人
間を表す「Mensch」の語源「manas」がサンスクリット語で「意(気持
ち、考え、意味)」を意味する所から自己感情を持つ者として付けら
れたのではという推測からの展開だ。それが売買の習慣によって交換
・契約・負債・権利・義務・決済などの感情を生み出し、まもなく
「すべての事物はそれぞれに価値を有し、一切はその対価を支払われ
うる」という概括にたどり着いた。これが正義の最も古い、そして最
も素朴な道徳的基準であり、あらゆる好意・公正・善意・客観性の発
端となった。この最初の段階における正義は同等な力を有する人々の
間で相互に妥協しようとする、つまり決済によって再び諒解し合おう
とする善意であり――いっぽうでより小さい力を有する人々もまた彼
ら同士で決済を付けることを強制しようとする善意であった。

これがまた苦しませること無しに済まされない時代を作り、また苦
しませる事のうちに最高級の魅力や生への野性的な活力を循環させて
いた時代を作り上げていたという事実は現代の道徳化され柔弱化され
た我々からすれば非人道的と非難されて然りの由々しきことであるが
彼らの時代には無意味な苦しみといったものはまったく存在しなかっ
た。

苦しみに対して人を憤慨させるのは実は苦しみそのものではなく
むしろ苦しみの無意味さである。

そこで彼らは解明できない苦しみに対して神々と種々の中間的存在
(精霊や妖精の類)を案出し、彼らの助けによって自己を正当化したり
自己に降りかかった災禍を正当化(説明)する技術を会得した。よって
彼らの苦しみは今日ほどひどく応えなかったという。

「神が見て喜び給うごとき災禍はいずれも義とせられる」

残忍な見物の愛好者と考えられた神々――古代人たちは常に観客を
意識し、且つ役者たることを意識した。そして神々が役者たる人間の
演技(徳行)への興味がまもなく尽きてしまうような決定論的な世界を
創り給うたはずはないとの思想から「自由意思」を発明し、人間には
善悪両方から祝祭を作り出す自由が与えられていると考えた。その最
高級の見物が残忍の喜びであった。

古代の債権者は債務者の身体にあらゆる種類の侮辱や呵責、そして
死さえ加えることが出来た。(これは彼の妻子に対しても同権である)
そこで早い時代から世界のいたる所で彼の身体のあらゆるパーツに合
法的な価格査定が行われた。例えば『十二表法』(四五〇年頃のロー
マの法典)においてはこのような場合に債権者が切り取る肉の分量の
多少は問題としないと書かれている。この事から彼らの考える「等価
」を明らかにすると――すなわち債権者は直接に利益を受取ることに
よって損害を補償するよりも非力、無抵抗な者の上に何らの躊躇もな
く自己の力を放出し得るという快感、悪をなすことの喜びのために悪
をなす愉悦、暴圧を加える事の満足感が損害の「等価」となり返済ま
たは補償となり得るという事だ。

(これは先に僕が述べた疑似独裁者的なガス抜き効果と言えよう。)

しかもこの満足感は債権者の社会的地位が低くかつ卑しいほどいよ
いよ高く評価され、ややもすれば非常に結構な御馳走のように思われ、
より高い地位の味試しのようにさえ思われた。(シャイロックが頑と
して一ポンドの肉を要求したのもこのような快感への期待であった)

債権者は債務者に刑罰を加えることによって一種の「主人権」に参
与する。――あるいは刑の執行が行政の手に委ねられている場合には
他人の軽蔑され虐待されるのを見るという優越感に到達する。してみ
ると報償ということの本質は残虐を指令し要求する権利に存する訳に
なる。

如何にして苦しみは「負い目」の補償となり得るのであるか。苦し
ませることが最高度の快感を与えるからであり被害者が損失ならびに
損失に伴う不快を帳消しにするほどの異常な満足感を味わうからであ
る。

残忍なくして祝祭無し。死刑や拷問や邪教徒の焚刑(ふんけい)など
を抜きにしては最も大規模な王侯の婚儀や民族の祝祭は考えられず、
また意地悪を仕掛けたり酷い愚弄を浴びせかけたりすることがお構い
なしに出来る相手を抜きにしては貴族の家事は考えられなかった。

――しかしこの最高度の快感を自ら自制して果てはまったく放棄し
てしまう場合がある。それは全く奇妙な現象で本来その行使に関して
最も良心が病むことの無い絶好の機会であるはずなのになぜだかあべ
こべに寛容さを示したくなるようなのである。それは犯罪者に対する
刑罰に見られる。

犯罪者とは何よりもまず共同体の破壊者であり、全体に対する契約
や言質(げんち。あとの証拠となる言葉)の破棄者である。彼はまたこ
れまでに共同体から受取った便益や前借を返済しないばかりか債権者
に食ってかかりさえもする横暴な債務者である。これに対する通常の
社会契約的な措置は彼を再び法の保護外の野蛮な追放の状態へ突き戻
し「平和なき者」たちの加害と敵意に晒されるままにする事である。
言い換えれば「野犬にでも食われてしまえ!」

実際共同体が弱く犯罪者のそうした振る舞いが全体の存続にとって
脅威となった時代にはそういう処分が下された。ここで言う共同体の
力とは財力のことである。債権者の人情の度合いは常にその富の程度
に比例する。主に他国の侵略によって得た莫大な財産に比べれば個人
の暴力が掠め取る損害ごとき他愛の無い物だという見方。尊大。
もはや一般の怒りは以前のように無制限に他愛のない個人の上に注が
れる事を許されない。非行者はむしろ今や特に直接の被害者の怒りに
対して全体の側から慎重に弁護され保護される。等価物を見つけて積
極的に示談に持ち込み、非行を仕掛けられた人々との妥協を引き出し
たり事故の範囲を局限し、より一般的な事例への抵触や動揺を予防し
ようとする努力が図られる。――犯罪者と犯行を分離しようとする試
み。(要するにカネで免罪が成立する金持ち有利の刑法に変わってい
ったという事でしょ)

「一切は償却され得る、一切は償却されなければならない」という
命題に始まった正義は支払い能力の無い者を多めに見逃すことをもっ
て終わる。――それは地上におけるあらゆる善事と同じく自己自身を
止揚(しよう。矛盾する諸概念を発展的に統一する)することによって
終わりを告げる。正義の自己止揚――恩恵――これこそ常に最も強大
な者の特権であり彼の法の彼岸(ひがん。悟りの境地)である。

(これはむしろ国家の経済的安定に伴って市民や商人階級の経済状
態も安定したために貴族や権力者側の成員(ブルジョワの台頭後はよ
り高級なブルジョワ)の失脚が権力維持にとって脅威となったので規
制緩和を図ったんじゃないの?つまり税制の優遇と同じ。なので市民
たちは非公式な共同体の怒りを表出する手段としてテロや反乱や暴動
や革命、より平和的な手段としてのストライキやデモなどを手札に加
えた。これも反動だ。)

では「正義の自己止揚」とはどういう境地か。それは常に正しい態
度でいるということである。加害者から個人的な毀傷や誹謗を蒙りな
がらなお冷静な、鎮静な、無関係な、無関心な態度を取り、客観性を
曇らせることなく(更に言えば礼儀を失する事なく)彼を取り扱うとい
う正に達観者の態度である。・・・残念ながらこういう人は真実稀有
の存在であり一般には最も清廉な人物であっても少量の攻撃や悪意や
追従を加えただけでその眼から公正を追い出してしまうのが通例であ
る。

能動的な人間、支配欲や所有欲が強く攻撃的で侵略的な人間はあら
ゆる場面において反動的な人間(正義の名の下に復讐を神聖化しよう
とする人間、あるいは単純にカウンターパンチャー)よりは百歩も正
義に近い。反動的な人間はその対象に誤った評価や偏見を加えた上で
正義を提起するが、能動的な人間は自身の思想のタンクで製造・希釈
された正義を提起するからである。事実それゆえに攻勢的な人間はよ
り自由な眼とより潔白な良心を味方にしてより強き者、より勇敢な者、
より高貴な者を自称してきたのだ。
彼は法を用いて反動感情に闘争を挑む。反感の放縦(垂れ流し)を堰
き止め、和解を強要し、妥協を案出し、反感の元となっている損害に
等価物を補償したりすることが権力者の側から働きかけられる。それ
が聞き入れられない場合には復讐を平和や秩序の敵とみなして宣戦布
告がなされる事があるが何と言っても彼らには法の制定がある。

法律とはすなわち最上の権力の眼から見て何が許されるべきで何が
正しいものとみなされるべきか、また何が禁じられるべきで何が不正
とみなされるべきかについて定められた命令的な宣言である。この処
理により禁じられた行為は社会行為の埒外に位置付けられ、それから
後は最上の権力に対する叛逆として扱われる。その旨は共同体のすべ
ての成員に認知され、以降被害者は法によって守られる。
→この後は行為を次第に非個人的に評価するように訓練される。
(普遍的に?つまり成員全ての眼を監視に向かわせるということ?)

――してみると法律の制定後に初めて「法」と「不法」が生じるの
だ。法律そのものはただの例外状態に過ぎない。なぜなら我々の生の
本質は侵害、圧制、搾取、破壊に依拠しておりこれらの性格を抜きに
してはまったく考えられないものだからだ。法律は突き詰めれば生を
敵視する一原理であり、人間の破壊者・解体者であり、人間の未来に
対する暗殺の企てであり、倦怠の一徴候であり、無へ繋がる道である。

・・・なぜこのようなことになったのか。加害者を共同体から分離
し、また彼が再び共同体に加わるための通過儀礼として生み出された
刑罰が一体どこで権力者の恣意的な意志を押し通すための、ともすれ
ばその障害を彼の敵として葬り去るための道具へと変化したのか。
ニーチェの挙げた刑罰の種類を今一度振り返ってみよう。
まずは危害の除去、加害の継続の阻止としての刑罰。次に被害者に
対する何らかの損害賠償としての刑罰。(うんうん) 均衡を乱す者の
隔離による騒擾(そうじょう。集団で騒ぎを起こして社会の秩序を乱
すこと)の拡大防止としての刑罰。刑の決定者及び執行者に対する恐
怖心の喚起としての刑罰。犯罪者がこれまで享有してきた便益に対す
る一種の決済としての刑罰。(例えば鉱山奴隷として使用される場合)
退化的要素の除去としての刑罰。(シナの法律における種族の純血を
維持するためのジェノサイド。または社会形式を固定する手段として)
祝祭としての、換言すればついに克服された敵に対する暴圧や嘲弄と
しての刑罰。受刑者や処刑の目撃者に記憶させるための刑罰。非行者
を常軌を逸した復讐から引き返させるために権力の側から取り決めら
れられた謝礼の支払いとしての刑罰。復讐が強力な種族によってなお
維持され、かつ特権として要求されている場合に自然状態との妥協を
促すものとしての刑罰。共同体の前提たる契約の破棄者、反逆者、裏
切り者、平和の破壊者、あたかも戦争に用いられるような武器を以て
打倒されるべき敵に対する宣戦及び作戦としての刑罰など――。

(これには戦争の理屈を法律に盛り込んでいった経過が見られるな。
つまり法の執行者は国民に対して無条件の戦勝者としての性格を意識
し且つ強化し続けてきたのではないか。それはあたかも国家を一個の
軍隊あるいは一個の肉体とみなして一つの自律的な運動を引き起こす
如くでそこには幾人かの意識下における統率者・軍将がいるものの総
司令官たる権力者は唯一で彼ら以下の個人はもはや存在しないかのよ
うである)

しかしこれでは我々が刑罰に期待する有罪者の更生や負い目の感情
の想起などとは縁遠く、ともすれば刑罰の存在と必要性自体疑わしい
ものとなる。実際今日では一体なぜ刑罰が行われるのかを明確に述べ
ることは不可能である。経過の全体が症候学的に総括される概念は定
義することが出来ないからである。刑罰は歴史を持ちすぎた!
ただしこれは我々が発展とか進歩と呼ぶべきむしろポジティヴな変
化・前進の結果であり、何も刑罰だけに見られる事ではない。我々の
生理的器官や法律制度、社会的風習、政治的慣習または芸術上の形式
や宗教的儀礼の形式、あるいは人生そのものにもその成長過程におい
て普通に見られることである。ためにそれらは絶えず新しい解釈や修
整による圧服の連鎖の只中にあり(政権交代)、しかもその発生や決定
に必ずしも関連性はなく単なる偶然による選択(試行錯誤)であること
が多い。――ということは反抗や弁護、部分的な消滅や無用化、委縮、
退化、意味や効用の喪失そしてより小さい力の犠牲あるいは死も進歩
の大切な要素に数えられるという事か。

・・・生き残った者の言い分としてはこんなものだろう。では粛清
された側の変化あるいは刑罰を受けた者に起こる変化とはいかなるも
のか。それについてもニーチェは書いている。

大体から言って刑罰は人を無情にし冷酷にする。(これは双方か)
集中せしめる。疎隔の感情を鋭くする。抵抗力を強くする。根気を挫
き、憐れむべき虚脱と卑屈を招致する。更に恐怖心の増大、思慮の綿
密化、欲望の制御である。してみれば刑罰は人間を手なずけはしても
より善くはしない。――まだしもその反対のことを主張する方が一層
正しいと言えるかもしれない。「損をすれば利口になる」と世間では
云う。ただしそれは劣悪と愚鈍を伴う利口だ。(次はへまをしないよ
うに?)

これは言い換えれば「良心の疚しさ」を意味するのかもしれない。
人類は国家の登場によって野蛮・戦争・漂白・冒険に適応した本能動
物から思惟・推理・算定・因果的結合を伴う抑圧的なあるいは強迫神
経症的な理性動物にスイッチした。そしてその過程には刑罰と同じ手
段すなわち残虐の限りを尽くした暴圧(芸術家的暴力、創造と破壊)が
用いられた。
外部に放出されなくなった本能は自ずと個々人の内部へと向かい、
敵意、残忍、抑えがたい支配の意思、芸術家的利己心、批判精神、反
抗、侮蔑、否定、破壊衝動はいまや自己滅却、自己否認、自己犠牲に
その充足を――悦びを――求めるようになった。(その究極的なもの
が自殺になる。ここに道徳的価値としての非利己的なものの起源と意
義が説明される。それもまた自己犠牲という残忍の一種における悦び
を充足させる手段の一つなのだ)

そしてこれら「良心の疚しさ」のうちでもはや償却しきれなくなっ
た分を何とか償却するために神が創出された。ギリシャの神々は人間
の動物的本能の擬人化として考えられたために彼らの内攻を和らげる
働きを果たした。彼らは死すべき者たちの非行を見て愚かといい、罪
とは言わなかった。罪はすべて神々にあり罪人は神に騙されたのだと
解釈されたのである。

だがキリスト教は違った。神を人間の債務のために自らを犠牲する
存在として創出した為に罪は引き続きすべて人間が負うことになった。

のみならずあのセンセーショナルな事件によって神に対して負い目の
感情を持ち続けることが義務付けられ、却って加虐の程度はひどくな
った。人間はもはや自分自身を到底救われ難い極悪非道の徒と捉え、
自分の受ける刑罰は常に罪過を償うに足りないと考える。それにより
我々の自然的性癖はますます悪い物となりついに「良心の疚しさ」と
姉妹になった。(そしてそこに付け込むように宗教家たちの説教はま
すます声高になり威厳を増したし、為政者たちの民衆に対する警戒も
また弥増しになった。となると金持ちが罪であるのは財力が自然的性
癖の放出を未だに正当化する物とみなされたから?で喜捨は悪の性癖
の放棄とみなされ免罪符はそれに加えて神が立て替えてくれた罪過の
返済に当たるものと考えられたのかな。)

我々近代人は幾千年にわたる良心の生体解剖と自己の動物虐待の相
続人である。それは我々に新しいもの、深いもの、未聞のもの、謎め
いたもの、矛盾に満ちたもの、未来に満ちたもの、そして我々の洗練
と贅沢に慣れた趣味とをもたらしたが同時に人間を反官能的なもの、
反本能的なもの、反自然的なもの、反動物的なものそして絶対的に無
価値なものにしてしまった。そしてそれは現在もなお秩序社会の理想
として君臨し続けている。しかしそれらはすべて人生を敵視する理想
であり世界を誹謗(悪く言う)する理想である。
我々には反対の理想とそれを主張する人物の到来が待ち望まれてい
る。大いなる愛と侮蔑とを持ったあの救済する人間が――自虐精神を
ポジティヴな推進力、冒険心に変換してあらゆる離脱(世俗からの)と
超脱(世俗に関わらない境地にあること)から幾度となく追い出される
あの創造的精神が――我々を従来の理想から救済する未来の人間が―
―この反キリスト者が、反ニヒリストが、神と無の超克者の到来が!
彼の孤独はあたかも現実からの逃避であるかのごとく民衆から誤解
される。しかしこれは実は現実への沈潜・潜入・没頭であるにすぎな
い。従って彼がやがて白日の下に姿を現す時、我々に掛けられた呪い
は解かれるだろう。我々は彼の打ち鳴らす希望の鐘によって自由意思
を取り戻し、世界は失われていた目標を見出すだろう。

彼はいつかは来なければならない。

――以上、第二論文「負い目」・「良心の疚しさ」・その他のまと
めでした。刑罰はその暴力的な性格の故に人々を理性的にし、その熱
情まで冷ましてしまう。若者の無気力、中高年の燃え尽き症候群、引
きこもりや自殺者の増加、そして恋愛の理性化による晩婚化と結婚へ
の結実不全、そして少子化。ニヒリズムとルサンチマンを基にした足
の引っ張り合い、匿名化、慢性的なアイデア不足、そして抑圧の反動
としての犯罪やテロリズムの凶悪化及び組織化・・・。これらが一つ
の原因からなるとは言い難いがもしこの暴力的な刑罰や監視社会の強
化による猜疑心の煽動、メディアによる残虐な映像を利用した「良心
の疚しさ」の喚起、そしてそれらの正当性の獲得や問題提起の種の提
供を目的とした犯罪組織による示威的な犯罪の数々がわずかずつでも
関与しているとすれば我々は直ちに進路を改めるべきである。それら
は人間と人生を敵視し、未来を否定するものだから。そして各人もま
た共同体が愚かな理想を克服できるように造られた「良心の疚しさ」
とニヒリズム、厭世家的な態度を振り払い、客観的な視野と冷静と適
度な無関心を持ち合わせた正しい人間になるべく自らを解き放たなけ
ればならない。

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