第三論文「禁欲主義的理想は何を意味するか」
本書では禁欲主義的理想を解明するに当たってドイツの哲学者アル
トゥール・ショーペンハウアー(1788-1860)を軸に彼の思想に強く影
響を受けたドイツの楽劇作曲家リカルド・ワーグナー(1813-83)を紹
介しているが僕はまず哲学者たる者の性質をまとめる所から始める事
にする。
まず哲学とはなにか。辞書によると「世界・人間・事物などの根本
原理を思索によって探究する学問」または「自分自身の経験などによ
って得た人生観や世界観のこと。または人生や社会や政治、恋愛など
大きなカテゴリーの全体を総括する理念を表したもの」とある。
原語となったギリシャ語の philosophia は「智を愛する」という意
味である。
では次に哲学者とは何か。ニーチェは書いている。
哲学者とはすべての生物がより精神的になり翼を与えられる高所の空
気のように希薄な、清涼な、自由な、乾燥したよい空気である。すべ
ての穴倉の中の安静である。なべて行儀よく鎖に繋がれている犬であ
る。そして敵愾心や思い切りの悪い復讐心の吠え声でもなく傷付けら
れた名誉の痛恨でもない。むしろ控えめで従順で、磨り臼のように根
気がよく、しかも目立たない臓腑である。見ず知らずの、彼岸の、未
来の、忘れ形見の心臓である。
哲学者は何よりも一切の今日からの休息を必要としている。彼らの
支配的な本能である「孤独」が彼らを友情よりも愛情よりも人知れぬ
荒野へと駆り立てるのである。・・・そこは喧噪や民主主義者の饒舌、
彼らの政治、彼らのニュースから隔絶された場所(僕の言葉で換言す
ればおそらく「世界を一つに」と叫ぶ世界からの逃避)、教養ある人
々が集う場所(あるいは教養あるその人自身)とそこで初めて可能にな
る気随気ままな韜晦(とうかい。才能や本心を包み隠すこと)と自己自
身からの逃避(これはともすれば自分がゼロになれる場所か。つまり
まったくの客観状態)、静かな書斎、ささやかな職務と平凡な日常事
をいちいち反芻できる場所、明るみへ出すよりはむしろ秘め事とすべ
き事が行われる秘密の場所、目の保養になる眼を持った山(湖のある山
)へ出向き、無害で快活な禽獣と戯れること、あるいはサービスに卑
賤の区別のない(すなわち特に注意を払われる事のない)万人向けのホ
テルの一室――そういった荒野に彼らは好んで生息する。
そしてそこで静謐(せいひつ。静かで穏やかなさま)、冷静、高貴、
遙遠(ようえん)、過去について思慕し、声高に話さなくても話し合え
るようなものを思慕する。束縛や妨害や喧騒からの自由、仕事や義務
や憂慮からの自由について考える。女性一般が持つ母性本能と同じ種
類の物を持って成長する者に対する密かな愛情を育む。
「所有する者は所有される」との標語から彼は隠遁(いんとん。世
俗を離れ隠れ住むこと)を求める。彼は遅れてきて人を待たせる。
そして彼は明るすぎる光を怖れる――きらびやかな名誉と王侯と婦女
を――。彼の時代とその白日(華やかな部分)を恐れる。これは哲学者
が常に敵を欲し敵によって生かされているからである。よって彼は影
法師の様な存在であり陽が沈むにつれて大きくなる(存在感が増す)。
それまではある種の従属と微賤(びせん。変態扱い?)に堪えていなけ
ればならない。
(それは彼が一切の不自由を否定した結果であって彼特有の禁欲主義
的理想を体現したものだから)
哲学者たる者が婦女および結婚を避け、しばしば官能に対して特有
の怒気と怨恨を持つのも同じ理由からであると考えられる。
あらゆる動物は各自の力が完全に発揮でき且つ各自の権力感情が最
大に発揮できる最善の条件を本能的に追求する。それは幸福への道で
はない。力への飽くなき意識はむしろ不幸への道である。しかし哲学
とはどこまでも自己の内面へ潜り込む作業であるから彼は全ての扉の
開閉を自由にするべく自らの王にならざるを得ない――しかも群れの
命令者ではなく自己の観察者たる神のごとき存在――。彼の眼はあら
ゆる権力者のそれと同じく他者の表面的な感情を飛び越してより実務
的な反応や刺激に対する効果を捉える。そのため彼は特に同衾の際に
予想だにしない、そして決して拭い去る事の出来ない屈辱と敗北感を
味わうことになるのだ。為にヘーラクレイトス、プラトーン、デカル
ト、スピノーザ、ライプニツ、カント、ショーペンハウアーなど名立
たる哲学者はいずれも結婚しなかった。――例外としてあの意地悪な
ソークラテースは哲学者に教訓を与えるために反語的に(アイロニー)
結婚したらしい。
彼は自己を意識せず且つ敵に自己を意識されること、友情に自己を
意識される事を好まない。彼は容易に忘却し、容易に軽蔑する。殉教
者になるなどということは悪い趣味に思われ、真理のために苦しむこ
ともそういう事をする時間のある野心家や精神の立役者(生理学者や
解剖学者)達の手に委ねる。彼らは滅多に大仰な言葉を用いない。
「真理」という語さえ大言壮語として使用を避ける。
最後に彼の貞潔について言えばそれは禁欲主義的な狐疑や官能に対
する憎悪から来るのではなくそれは闘技者や競馬の騎手が婦女を遠ざ
ける場合の貞潔(硬派)に等しい。そしてその度合いは大いなる懐妊期
において最も強くなる。すべての芸術家たちは大いなる精神的緊張と
準備の状態にある時の同衾がいかに有害な結果をもたらすかを知って
いる。彼らに必要なものは母性本能ただ一つである。
(要約すると芸術家が官能的な作品に取り掛かろうとする直前に実体
験あるいは視覚的情報は要らないという事。皆もご存じと思うが性交
をすると相手の生体エネルギー(オーラと言っておくか)がどっと体内
に入り込んでくるからだ。それが同色のものであれば問題はないが異
色のものであった場合、彼のガスと塵でできた想像力に壊滅的なダメ
ージを受ける。少なくとも惑星が形を為すまでは取り入れるべきでな
い。彼らに必要なのは休息と睡眠と大いなる想像力及び創造力である)
さて哲学者の性質をさらったところで論文の冒頭に戻ってそこに挙
げられている二人の哲学者とその思想について簡単になぞっておこう
と思う。少し長くなりますが興味のある方はお付き合いください。
ではまず一番先輩のカントから。
イマヌエル・カント(1724-1804)
ドイツの哲学者、思想家。合理論と経験論を統合して批判哲学を提唱
。「純粋理性批判」、「実践理性批判」、「判断力批判」の三批判書
を発表。更に認識論の常識を覆して近代的認識論といわれるドイツ観
念論哲学を創始した。――これまでの常識では人間の認識は外部にあ
る対象を受容れるものとの見方が強かったが、カントはそれに対し
「人間は物自体を認識することはできない、人間の認識が現象を構成
するのだ」と説いた――。これはカント自身の言葉で「コペルニクス
的転回」と呼ばれる。――ニコラウス・コペルニクスという天文学者
の名から。彼もまた地球中心説の常識を覆して太陽中心説を唱えた代
表的な人物であった。(ただし発見者はヨハネス・ケプラー他)
→これから派生して物事の見方が百八十度変わってしまうことを指
す慣用句として使用される。
彼は「道徳の本質は何か?」という問いに「定言命法kategorischer
Imperativ」を用いて「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原
理として妥当しうるように行為せよ」と説いた。これは人間が欲求に
誘惑されやすいことを認めた上で行為する際には個人の視野から一歩
離れて全体野あるいは客観視を用いて立法の原理に妥当し得る――従
って同じ欲求にさらされたすべての人(次回の自己を含む)が同じ選択
をし得る選択、自分自身に対してなされても正しいと言える選択をせ
よという事である。
続いてカントの遺した名言を少し挙げておきます。彼の哲学の目指
す所は第一文に集約されているのかな。啓発者というより指導者。ロ
ーマの執政官のイメージ。「階段の下で聞け!」――だってこの人、
他人と関わりたいんだもん。(笑)
「我が行いを見習えと、誰にでも言えるような行いをしなさい」
「我は孤独である。我は自由である。我は我自らの王である」
(王の前に「よって」を入れるとより面白いね)
「徳にとってまず要求されることは自己自身を支配することである」
「苦悩は活動への拍車である。そして活動の中にのみ我々は我々の
生命を感じる」
「努力によって得られる習慣だけが善である」
「善行はこれを他人に施すものではない。これをもって自分自身の
義務を済ますのである」
「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである」
「互いに自由を妨げない範囲において我が自由を拡張すること、
これが自由の法則である」
「あらゆる事物は価値を持っているが人間は尊厳を有している。
人間は決して目的のための手段にされてはならない」
「最も平安な、そして純粋な喜びの一つは労働をした後の休息である」
「我々は動物の扱い方によってその人の心を判断することができる」
「科学とは体系化された知識で、知恵とは整理された生活である」
「宗教とは我々の義務のすべてを神の命令とみなすことである」
「民主政治は専制政体と変わらない。なぜならば民主政治とは全員
がひとりの意志を無視し、時にはこれに逆らって議決し得る――とい
う全員ならぬ全員が議決し得る執行権を認めるからである」
(言い換えれば全員はほとんどの場合一人の意見には反対を示してこ
れを棄却する、ということは全員は独りに対して常に専制的であると
いうことになる――そして独りに対して専制が許されれば二人、三人
に対しても許されるようになっていく――。哲学者の立場を反映した
哲学者らしい見方)
「モラルある政治家は国にとって何が最善かをモラルを踏まえて考
える。(対して)モラルを説く政治家は自分の政治のためにモラルを利
用する」
「妻は夫を支配する、夫は妻を統治する」
(前者がモラルある政治家で後者がモラルを説く政治家?)
「美には客観的な原理はない」(?)
この名言に対して本書ではカントは「美とは感心なしに心に適うもの
である」と言っていると書かれている。彼はすべての哲学者と同じく
芸術家(創作家)の経験から美学上の問題を検討する代わりに「観賞家」
の立場からのみ芸術および美について考察した。そして非個人性と普
遍妥当性こそが芸術に対する敬意の表し方だと考えた。
次に美に対するアプローチにカントの考え方を採用したショーペン
ハウアーの紹介。
アルトゥール・ショーペンハウアー(1788-1860)
ドイツの哲学者。仏教の思想とインド哲学の精髄を語り尽くした思想
家で生の哲学、実在主義の先駆者と言える。ニーチェ、ワーグナー、
アインシュタイン、フロイト、ユング、トルストイ、ヒトラー、フー
コー、森鴎外、荻原朔太郎、筒井道隆など様々な学者、思想家、芸術
家、作家らに影響を与えた。
「生の哲学」は人生哲学のことで「如何にしてよく生きるか」につ
いて考察する学問である。次の「実在主義」とは現象の原理を本質か
ら見るよりも現象に現われた要素から掴もうとするもの。本質を積極
的に認めない傾向があるため唯物的もしくは即物的になり、極端な思
想が生まれる土壌となる。また悲観的な発想にも陥りやすい。
次に彼の名言。ニーチェの評する所によれば一人の本当の哲学者。
勇気を持って孤立することが出来る自律的な精神の持ち主でもはや先
行者や上からの指図などを俟たない(ま-つ。期待する、何かに望みを
託する)青銅のごとき眼光を持った一個の男子且つ騎士。
「人間は孤独である限り彼自身であり得る」
「孤独は優れた精神の持ち主の運命である」
――『パレルカ-ウント-パラリポメナ』
「孤独を愛さない人間は自由を愛さない人間に他ならない。なぜな
ら孤独でいる時にのみ人間は自由なのだから」
「誰もが自分自身の視野の限界を世界の限界だと思い込んでいる」
「強い人間は自分の運命を嘆かない」
「人の社交本能もその根本は何も直接的な本能ではない。つまり社
交を愛するからでなく、孤独が恐ろしいからである」
――『幸福のためのアフォリスメン』
「あきらめを十分に用意することが人生の旅支度をする際に何より
も重要だ」
「人はその生涯の40年間で本文を著述し、これにつづく30年間にお
いて前者についての注釈を付加する」
――『幸福のためのアフォリスメン』
「宗教とは蛍のようなものだ。光るためには暗闇を必要とする」
――『パレルカ-ウント-パラリポメナ』
「信仰の強制は、不信仰を喚起するだけである」
「読書は他人にものを考えてもらう事である。本を読む我々は他人
の考えた過程を反復的にたどるに過ぎない」――『読書について』
「我々は他の人たちと同じようになろうとして自分自身の四分の三
を喪失してしまう」
「人間の幸福の敵は苦痛と退屈である」――『随筆』
(これらはいずれも他人との関わりによって生じる)
「世論は振り子の運動の法則に従う」
「礼節とは道徳的にまた知的に貧弱な互いの性質を互いに無視し合
いながら非難しまいという暗黙のうちの協定である」
「金銭は人間の抽象的な幸福です。だからもはや具体的に幸福を享
楽する能力のなくなった人はその心を全部金銭にかけるのです」
「世間普通の人たちは難しい問題の解決にあたって熱意と性急のあ
まり権威ある言葉を引用したがる」
「音楽とは世界がその歌詞であるような旋律である」――これは彼
の音楽家に対する異常な信仰から出た言葉であるが本書ではこう書か
れている。すなわち音楽は自余(じよ。このほか)一切の芸術と区別さ
れるべきものであってそれ自体において独立的な芸術であり、諸他の
芸術のように現象界の模写を提供するものでなくむしろ意志そのもの
の言葉を、しかも深淵から直接にそれの最も独自な、最も根源的な最
も根本的な啓示として語るものである。
そしてこのような芸術観とカントの無関心性を合せて美的観照(かん
しょう。主観を交えることなく本質を捉えること)は他ならぬ性的関
心に反対作用を及ぼす。従ってそれらはあたかもルブリーンとカンフ
ルとの関係に似ていると言った。
ルブリーン(ホップ苦味素)――ビール製造に欠かせないホップのこ
と。鎮静剤、虫よけに使用。
カンフル――精製した樟脳液。中枢神経を興奮させ心臓の収縮力を
強める作用があり、かつては蘇生薬として盛んに用い
られた。
慣用表現として「末期状態の物事を回復させる効果
的な措置」の意で用いる。
・・・彼は恐らく「読書は他人に物を考えてもらう事である」とい
う思想の原点となる物の捉え方を音楽から見出したのだろう。皆さん
はお分かりになるか分からないが彼は孤独を務めとする哲学者ならで
はの視点から芸術には唯一であるべき自己の中に他者が侵犯すること
を許してしまう不思議な力があって音楽は特にその傾向と度合いが強
いという事を言いたいのである。
読書や絵画や演劇などはせいぜい飾り立てた自慢の私室へ招じ入れ
るに過ぎず、彼らと語り合う主観たるもう一人の自己と共にまあくつ
ろいでくれ給えといった態度で応接するが、音楽に限ってはクリスマ
スなどに一族の子どもたちが一同に会して家の中を引っ掻き回すよう
に体内を駆け巡り、もはや収集が付かないがとても心地よいのでされ
るがままになっているようなものだ。彼はそこに留まってまったく自
己を留守にしてしまう。それは大人に子どもたちのルールが分からな
いように音楽を構成する一音ずつが変換の利かない素数であって彼に
言語的解釈を求めないからであるし、博学な彼が無知になれる数少な
い貴重な時間だからだと言うことも出来るだろう。
彼はそこで「卑しむべき意志の衝動と緊迫」からまったく解放され
世界を感じる。何者の思惑にも染められていない原初の世界を。それ
は多くの官能を含んでいるがもはや彼を興奮させはしない。――とこ
れが彼の感じた芸術に対する感動だった。彼はこの発見を以て諸他の
芸術全般に当てはめてみたことだろう。そして導き出したのが上記の
思想であった。
これに抗議をしているニーチェは彼の発見した物を確認することが
出来なかったのだろう。官能は美的状態の現出によって形を変え、も
はや性的刺激として意識に上らなくなると書いている。さらにスタン
ダールの「美は幸福を約束する」という見方に弁護を求め、ショーペ
ンハウアーも関心から美を見ているはずだ、しかも極度に個人的な関
心から――すなわち拷問を受けている者がそこから脱しようとする関
心から美を楽しむのだと言い放った。そしてその流れでこの論文の命
題の一つに答える。
「一人の哲学者が禁欲主義的理想について報じる場合、それは何を
意味するか」――それは拷問から脱しようとする意欲である。
ここでもう一度哲学者の起源だって。念を押すなあ。
哲学的精神の根源、それは恐るべき理不尽な時代の常識を無理やり
に肯定するために自身の内から湧き上がる倫理観を説き伏せる方便で
あったと言える。世界史に先行する風習の道徳が重んじられた世界に
あってはいたる所で苦しみや残忍、偽装、復讐、理性の否認が徳とし
て通用しその反面、無事である事や知識欲や平和や同情することが危
険とされ、逆に同情される事は勤労と同じだけ侮辱的な事と認識する
よう教育されていた。そこでは狂気こそが神聖なのであり、(残虐か
らの脱却を意図した)変革は不道徳なもの、破滅を孕(はら)むものと
喧伝されていた。
そしてこのように無理を通して道理を引っ込めるような時代の要求
に「恐怖」を以て応えさせようとするのは今も昔も変わらない唯一の
手段である。憐れな民衆はほとんど哲学者並の省察と忍耐を以てこれ
に適応したことだろう――支配者に使用されるだけの家畜のような命
をそれでも繋ぐために――。最古の哲学者はこのような状況で自己の
アイデンティティーを何とか確立しようと自分自身に残忍な苦行を課
しつつ同じく逆境下にある同胞たちに鎮静を与える者となった――そ
のモデルになったのは僧職者や呪術者、預言者だった――。
故に彼らは世界を否定し、生を敵視し、官能を信じずそれを超脱する
事を避けられなかった。これが彼ら宗教的人間の禁欲主義の始まりで
ある。
さて時代は下り世界は人間主義の思想に基づいて自由意思が認めら
れるようになった。人々は自己の倫理観との対話が許され幾分無理な
くアイデンティティーを確立出来るようになった。しかし彼らは未だ
そこから脱け出すことが出来ず、あの理想の内に彼の信仰と意志、力
そして彼の利害をも見出している。彼の生存への権利はあの理想と存
亡を共にする――なぜそうするのかを説明することはできない――。
のみならず彼ら禁欲主義的僧職者はいまや民衆にも彼と同行するよう
要求し、また彼の力の及ぶ限りにおいて強要する。それはまったくの
倨傲(きょごう。おごりたかぶって人を侮ること)である。それは神と
自然に対する我々の態度の全体であり、機械や工学技術家のあの躊躇
するところを知らぬ発明力の助けによって我々が自然の上に加える暴
圧である。つまりは我々人類にとってごく一般的な、従って受け入れ
やすい思想なのである。
遠くの星に住まう存在が我々を考察するとすれば次のように結論付
けるかも知れない。――地球は実に禁欲的な星である。自己に対し、
地球に対し、そして一切の生に対して深い不満からまったく脱したこ
とが無く苦痛を与えることにその唯一の満足を感じる高慢で厭うべき
生物の隠れ場所であると。
彼らはあらゆる階級から発生し自己矛盾に満ちた禁欲生活をしてい
る。クルミ割り人形の如くひたすら自己の破壊、自我の唾棄、自己の
実在性そのものへの拒否に明け暮れ、「反感」を磨き上げる。それは
他者が一般に生の喜びに据える生理的繁殖に嫉妬深い陰険な眼を向け
る。彼が視覚的にまた感情的に喜びを感じるのは不幸、醜悪、自発的
な損傷、自己棄却、自己懲罰、自己犠牲に対してであり自他の別なく
この情景を積極的に求める。そして自己の減衰と共にいよいよ自信を
得て勝ち誇る。「断末魔の苦しみの内の凱歌」こそ彼らの標章である
。彼らはこの狂喜と苦悶の内に最も明るい光を、その救いを、その最
後の勝利を認める・・・。
(理解できない。これはリストカッターが手首を切る事で生存を確
認するようなことかい? しかもニーチェはここからこの理想を弁護
しにかかるんだ。う~む)
「生に反抗する生」、これは全くのナンセンスだ。しかし人間の生
そのものが例の独裁者による恐怖と刑罰を用いた馴致(じゅんち。な
じませること)によって良心の疚しさに病んだ状態にある場合にはそ
れに対する防衛本能とみなすことが出来る。そしてそのように見方を
変えること、また変えようとすることは知性がやがて「客観性」に到
達するための訓練であり準備である――植え付けられた理性すなわち
先入観を解きほぐし、同一事物に様々な感情、様々な眼を貼り付けて
見る技術を習得するための準備――。
したがってこの理想に課せられた使命はこの理想の崇拝者が思って
いるのとは全く正反対である。禁欲主義的理想は生を維持するための
一つの策略である。そしてこの力の故にあらゆる不具者、不調者、破
産者、失敗者、自己苦悩者の全畜群を生存につなぎ止めつつ自ら牧者
として本能的に彼らの先頭に立つのだ。この禁欲主義的僧職者、この
外見上の生の敵、この否定者こそは生の実に大きな保守力であり肯定
力である。
人間は他のどの動物よりも果敢であり革新的であり反抗的であり運
命に対して反抗的だった。自己の大いなる実験者、足ること飽くるこ
とを知らず前進し続ける。しかし一方で倦怠、吐き気、自己嫌悪を起
こしやすくしばしば死への衝動に掻き立てられる。(例えば一三四八
年ごろの英仏百年戦争とペストの流行が重なった時の自暴自棄)
これは再び前進するための停滞、反動の呼び水、後に彼に生きよと命
ずる消えることのない古傷である。
(やっぱりリストカットだ。禁欲主義者は病人から抜きんでた独裁
者という位置づけなのかな? 退院して伸びをしてみると外の空気も
またが淀んでいることに気付く。「何だ、健常者と思い込んでいる一
般人も病人なんじゃないか。よし、私が指導してやろう」という思想
の流れか。僕が一仕事終えて世間を見た時に「まだそんな所に居るの
?」と感じるのと同じだな)
人間の大いなる危険は病人である。悪人でもなく猛獣でもない。
初めから不運な者、虐げられている者、打ち挫かれている者など最も
弱き者どもこそは最もしばしば人間の足元に穴を掘って生活を覆し、
生に対し、人間に対し、我々の信頼に対して最も危険な害毒と疑惑を
注ぎ込むのである。
(ここから4ページほどは彼ら病人どもに対する楽しい中傷の数々。
これは第一論文で「羊の皮を被ったオオカミ」として紹介された族と
同一人物だろうか。僕の中傷者たちが喜んで朗読しそうな文章が並ぶ。
まあ僕の考え方を知らないままこれを読むと僕の症状だと判断するか
もしれないね。・・・ちょっと書き出しておくか)
あの目つきは嘆息だ。「俺は俺に飽きた!」と言っている。
このような自己侮蔑の沼地にはあらゆる雑草、あらゆる毒草、あらゆ
る怨念と執念の蛆虫が群がっている。そこでは勝ち誇った者が憎悪さ
れる。正しい誹謗のなんという芸当だ! 奴らの唇からなんと高貴な
雄弁がほとばしる事か! 奴らは何を欲しているのか。正義を愛を知
恵を優越を見せびらかすこと――それがこれら最下等者どもの野心な
のだ! 奴らは生身の非難として警告として我々の間を歩き回ってい
る――あたかも健康や上出来や強さや誇りや権力感情が背徳的な事柄
であり、従っていつかは贖われなければならないもの、しかも苦しい
思いをして贖わなければならないものであるかのように。
おお、なんと奴らは刑吏になることを渇望していることか!
虚栄心が強く、嘘つきの出来損ないの道徳的自慰者、自己満足者、陰
険な忍苦者。彼らの復讐はいつになったら最も洗練された最も崇高な
凱歌に到達するのだろうか。疑いもなくそれは奴らの惨めさを幸福な
人々の良心の内へ押し入れて疚しさを喚起することに成功した時であ
る。
( 否、終わりはない。彼らは同情されるために、同情による施しを
もらうために惨めや苦しみを装っているのだから。しかも毒草を塗っ
て皮膚をただれさせたり事故に見せかけて指を切断するような骨身を
削る苦しみではない、むしろ顔と衣服を泥まみれにするような見た目
と実損のギャップが著しい、いわゆる演技、いわゆるメイクアップの
苦しみでなければならない。彼らの復讐の矛先は永く厭わしい人生そ
のものなのだから)
そんな逆立ちした世界なんか失せてしまえ!
だからこそよい空気が大切なのだ! 健康者から病人を隔離しておく
ことだ。人間に対する同情から遠ざかることだ。
(うん、これが僕の態度だ。現在の日本で言えばこの病人がサクラ
で禁欲主義者的僧職者はその再利用者。隔離すべし。
「強者にとって災厄は最強者からでなく最弱者からくる」――その通
り。災厄は最弱者を用いる最強者によってもたらされる。よって今や
順位が更新されて最弱に落ちた弱者をこそ彼らの間に割り込ませて連
携を断たなければならない。病人は最も惨めでなくてはならないとい
う絶対の信仰があるので不具者などには冷淡だ。「障害者」を「障が
い者」と言い換えるぐらいの同情しか示さない。しかし最大効率を除
外すれば不具者との間に線引きをする必要は一切なくなる。私たちが
新しい環境に入って出会う人たちと同じように彼らと出会う。意思疎
通さえできればそれができない彼らより百倍良い出会いだろう。病人
たちから絶対の信仰を奪い去る事、これこそ強者にとっての災厄とな
るだろう)
(それから僕にとって羊飼いとは常に最後尾を歩く者のことだ。放
牧地までの道を示したらあとはそれぞれの足で行かせる。早く食べた
い者は早く行くだろうし過程を楽しみたい者は道草をするだろう。構
わない。皆が目的地に着くことと揃って帰ること。これさえ守られれ
ば他はどうでもいい。罰するのは他者の歩みを邪魔する者だけだ。
これが僕にとっての羊飼い――指導者だ。よって僕は禁欲主義者では
ないのかもね――すると哲学者でも芸術家でもないのか。それらの反
動の産物である独裁的個体かね)
禁欲主義的僧職者の巨怪な歴史的使命、それは苦しんでいる者を支
配して彼の王国を築くことである。彼はこれを本能からの絶対的な信
仰とし、この支配の内に彼の卓越した技術と彼の幸福の全てが注がれ
る。なぜなら他者を支配することを考えている内は自身の苦行を免除
されるからだ。彼が自ら病人になるのは彼らとのネットワークを築く
ための予備知識に過ぎない。彼の最大の病は彼自身に飽きていること
にあるのだから。見たくもない自己を見なくて済む方策が弱者の支配
なのであり彼はそこに最大かつ不死身の権力を求めるだろう。敗北は
許されない。そしてその強迫観念こそが他の比較的症状の軽い病人、
廃人たちを惹き付ける負の魅力となる。そういう土壌があって初めて
彼は病人どもから信頼され畏怖されることが出来る。狂暴かつ奔放で
冷酷な健康者との間に立って病人どもの足場防堡、支柱となり、さら
には暴君となり神となることが出来るのだ。
(ここで突然神が飛び出してくる。それは彼らの創作なのか。)
疑いもなく彼は軟膏や膏薬(公約?口約?)を持っている。しかし彼
が医者となるにはまず傷付けなければならない。そこで彼は傷の痛み
を鎮めながら同時に傷口に毒を塗るのだ。彼の傍にいると全ての健康
者は必ず病気になり、すべての病人は温順(大人しく素直)になる。
彼は反感の方向転換者である。彼は病人に付き物の劣悪や奸計や悪
意、卑劣、臆病、貪欲、淫乱その他の害悪を狡猾に頑強に且つ内密に
癒し(あるいはいなし)、畜群の無政府状態とこれに堆積する反感と戦
う。
(現代ではこれを善良な人間の監視と弾圧そしてそれら犯罪行為の免
罪によって実践している)
実際すべての苦しんでいる者は本能的にその原因あるいは原因の悪
意ある作為者を探し求める。「私の気分が悪いのは誰かのせいに違い
ない」――すべての病人はこう推論するからである。そしてその激情
(怒り)を発散することによって一時的に苦しみを麻痺させるのが彼ら
の狙いだ。ために彼らは古傷を何度も切り開く。そして友人や妻子や
その他彼らに最も近しい人々の中から悪行者を造り上げる。
これに対して彼の牧者は言うだろう、「私の羊よ、まったくその通
りだ! しかしその誰かとはお前自身なのだ。お前が苦しんでいるの
はお前自身のせいだ」
(さらに続けると「仮にお前が非難する者が真実悪だったとしてもそ
れはお前の育て方、接し方が悪かったせいだ。お前が悪い。よって私
が罰することでお前を救おう。お前は自らを罰しなければならない」
・・・こうして暴力や罵声などによって苦行を強いられた信者はその
後懺悔の気持ちが芽生えるたびに彼を訪れるようになる。たとえ犯罪
を犯しても彼に告白して罰を受ければ免罪されると信じて。では悪者
にされた人たちは冤罪だったとして釈放されるのかと言えばそれはな
い。以前苦しみの原因は解明されず激情を吐き出さなければならない
し、そこに懺悔が付加された事によって激情を吐き出す行為自体は正
当化されたからだ。いまや彼は苦しみの嗜好者として苦行を受ける口
実を設けるために近親者に悪をなす。――これが禁欲的僧職者のいう
所の反感の方向転換である。彼に無実の近親者を救う義理はない)
人間において「罪悪」ということは何らの事実でもない。むしろ一
つの事実の、一つの生理的不調の解釈であるにすぎない――それもあ
る道徳的・宗教的な見方の下で作られたものである――。
例としてあの有名な魔女裁判においては当時もっとも炯眼(けいが
ん。鋭い眼力)かつ寛仁(かんじん。心が広く優しいこと)な裁判官た
ちがそこに罪があると疑わず、魔女自身もそれを疑わなかったのであ
る――そこに罪は存在しなかったにもかかわらず――。
・・・時々地上の定まったいくつかの場所で同時多発的に一つの生理
的阻害感情が産声を上げ、広汎な大衆を支配することがある。その原
因は余りにも異なった人種の交錯および階級の交錯の結果であるかも
しれないし(ヨーロッパの世界苦――いたる所で病院の臭いがする病
人の隔離場所における陰鬱、または19世紀の厭世観)、あるいは最も
誤った移住の結果かもしれないし、人種の老衰と疲弊の余波かもしれ
ない。他に食事によるもの(中世の飲酒癖や菜食主義者の愚劣)、肉体
の病によるもの(敗血症やマラリア、カビ毒)、そしてドイツにおける
三十年戦争が挙げられる。(あの戦争はドイツの大半を抑うつ症にし
ドイツ的卑屈とドイツ的小心とに道を拓いた)
これらはいずれも受動的というか小さな原因の連続的な堆積がある
時点で爆発して引き起こされたものと言えるが魔女裁判はこれらとは
別種のもののように思う。共同体の抑うつ感情を癒し、鎮静する立場
を自負する僧職者自らの手で阻害感情(差別感情)が発明され、教義の
大義の下に拡散されたように見えるからだ。そして彼らは原因を取り
除くことはしない。戦いを鼓舞するだけだ。では民衆にとって阻害感
情との戦いとはいかなるものか。
――それは第一に生活感情一般を最低点まで引き下げることによっ
て試みられる。すなわちあらゆる意欲、あらゆる願望を放棄しそれら
を想起・促進するような刺激物を避けること。愛さず憎まず、復讐を
思うよりは健忘を駆使して気持ちを変えないこと。富を積まず働かず
できるだけ妻を持たず愚鈍でいること。冬眠に類する催眠状態を持続
することなど。
これは仏教で「解脱」、ギリシャの苦悩するエピクーロスが言うと
ころによれば「催眠的な無の感情、最新の眠りの安静」の状態になる
ことを指す。あらゆる宗教が自在にこの境地に入る事を目指し、同種
のトレーニング法を試みる。――絶対的な規則正しさ、几帳面な没我
的服従、千篇一律の生活様式、時間の節用、非人格性・自己忘却・自
己無視への訓練、言い換えれば機械的活動による意識の独占状態。
(これらの一致をお分かりになるだろうか。この一致の恐ろしい意図
を! 禁欲主義的僧職者は治療する前にまず傷付ける。傷付けておい
てのうのうと抑うつの鎮静剤といって無気力を促す)
僧職者たちは民衆たちのこの態度を奨励すると同時に小さな喜びを
処方する。それは恩恵、施与、便宜、援助、慰謝、褒賞、抜擢にわず
かな力への意志(最小の優越)を付与したものである。ただし弱者は団
結そのものに悦びを感じるため彼らの協力意識・相互救済の意識を刺
激するような心地よい標語を与えてやるだけで結構な効果がある。
実際すべての弱者と病人は本能的に群居を求める。それもまた陰鬱
に対する一つの進軍であり勝利であるからである。――これに対し強
者は分散したがる傾向にある。よってすべての寡頭政治(少数者が国
家権力を握って行う独裁的な政治)の下には常に専制的な欲望が隠れ
ている――。
さて、禁欲主義的僧職者たちが標語を作成するにあたって我々民衆
のどんな性質を見るだろうか。どのような種類の言葉に「感激」を覚
え、または鵜呑みしてくれると考えるだろうか。それは現在出版され
ている書籍が教えてくれる。――それは法外に道徳化された言葉がき
っちり整頓されている書物である。嘘をつかない書物あるいは反対に
不正直な嘘(方便、ゴシップ、お涙頂戴物、推理物も?)が書かれた書
物である。言ってみれば役に立たない物、後代に何らの知識の継承も
与えない物である。例外的に役に立つとすればそれは吐瀉剤としてで
あって近代性の持つ道徳的な甘さと虚偽を呑んで理想主義を自称する
フェミニズムの常備薬となる物がそれだ。
今日自らを善良な人間だと感じているすべての人々は嘘を言わない。
徹底した道徳教育によって真実と虚偽の間に底なしの亀裂を生じさせ
たためにより人間らしいニュアンスをすっかり削り取ってしまったた
めである。彼らはもはや不正直な嘘を言ってその場を繕うか底なしの
嘘を言って関係自体を繕う事以外できなくなってしまった。彼らのう
ちで「正直」は永久に滅茶苦茶にされている。
(なので嘘が言えない人は彼らから白い目で見られ、冷遇される。
彼らは読めない漢字にルビを振ったりその意味や自分の解釈を書き加
えたりすることができない)
彼らのうちの誰がなお人間についての真実に耐えられようか!
彼らのうちの誰が真実の伝記(あるいは真実の歴史)に耐えられようか!
人間の魂を全く支離滅裂にする方法と彼らをつまらなさとくだらな
さから一時的に解放する方法は同じである。それは大きな感情を発現
させること――憤怒、恐怖、情欲、復讐、希望、勝利、絶望、残忍な
ど――そしてその衝動の後に「負い目の感情」を抱かせる事である。
(それは巧妙な道徳教育によって内密に準備され、現代であればテレ
ビや映画、ネットなどの視覚情報によって繰り返し訓練されていく)
彼はいまやそれを良心の疚しさ(後ろ向きにされた残忍性)として知
覚し、僧職者の解釈によって「罪」と知る。気晴らしを求めて一時の
快楽に手を出したばかりに彼は病人となり、ついに罪人にされてしま
ったのだ。罪の苦しみから逃れようとまたも刹那の快楽に手を伸ばし
更なる負い目、恐怖、罪の意識として返報を受ける。それが繰り返さ
れるうちに彼は快楽をも自己に対する罰であると知覚するようになる
だろう。不快を克服しようとしているのか、それとも単に自分を罰し
ているのか、区別が付かなくなる。彼はこの悪循環から抜け出せなく
なる。この時僧職者は嬉々として勝利の凱歌を聴く。
「神(僧職者)よ、もっと苦痛を! もっと苦痛を!」
(因みにあの魔女のヒステリーの時には「死バンザイ!」が叫ばれた)
・・・今や”元”善良な人間たちは科学に救いを求める以外なくなっ
た。そこはあらゆる不平、不信、悔恨、自己蔑視、良心の疚しさの駆
け込み寺である。それ自体が無理想の不安と愛の欠如に基づく苦しみ
と強いられた満足に対する不満を持っているから。それを学ぶ者は自
己麻酔として科学を学ぶ。彼らもまた哲学者と同じく自己と向き合う
ことを恐れる者たちなのだ。というのも科学は自立性を持たない。そ
れ自体が価値を創造することもない。常に他の確立された価値や理想
を必要し、それへの奉仕によってのみ自身の存在を肯定する。陳腐な
喩えをするなら具だくさんのサンドイッチがなおもパンを必要とする
ようなものである。
そしてここからは悲報であるがパンもまた具を必要とする。科学の
登場によって哲学や信仰もまた科学に方向、意味、方法、存在権を賦
与しなければならなくなった。よって科学は禁欲主義的理想の盟友で
ある――それも最善の――。となれば科学者が幅を利かせる時代もま
た我々に希望をもたらさない。そこにおいても生の貧困、生理的知識
の欠乏が支配的で問題に対するアプローチは精神的・道徳的、「豊か
さのためには前進あるのみ」が標語の疲労の時代であり、日没の時代
衰亡の時代である――国家単位の活性、生活に対する確信、未来に対
する確信はもはや失われている。シナ風の大官が勢威を張るのは決し
てよい事柄ではない。それは民主主義の到来や戦争に代わる平和の仲
裁裁判や男女同権や同情の宗教などがよい事柄でないのと同様である。
(生理的知識の欠乏を克服するべく客観性の獲得を進めながら尚も
専制的な政治形態を推すのか。女性への理解なくしては人間の半分を
知るにすぎないのにな。ニーチェもまた一を目指す人。だからファシ
ズムに利用される。――ただし「総括」にて別解釈も記す)
では禁欲主義的理想と対立し得るものは何か。それは芸術である。
芸術においては虚偽そのものが神聖化され、欺瞞への意志が良心の咎
めを受けることなしに許されるから。(それは『イソップ物語』や絵
本をイメージして考えると分かりやすいが仮想領域における虚偽、欺
瞞である。そこでは鑑賞者もまた作者と作品とを切り離して見ること
が求められる)
(そしてだからこそ禁欲主義的僧職者すなわちキリスト教は早くか
ら彼らに近づき、教会装飾に大いに採用した――彼らが自立する事の
無いように。為に芸術家は実に長い間ある道徳、ある哲学、ある宗教
の侍僕であった。また世間に対しても自主的な位置を獲得して来なか
った。そのことで彼らはしばしば贔屓の顧客の従順な阿諛者(あゆ。
相手におもねりへつらう事)となり、旧来の権力や新興勢力に対する
追従者となって何においてもまず生活の安定を確立しなければならな
かった。そしてこの奉仕が彼らをしばしば腐敗させその態度が世間一
般の評価となった・・・これが禁欲主義的僧職者にとって非常に好都
合であったことは言うまでもない。ニーチェもこの腐敗した芸術家を
特に嫌っている)
他にはもはや彼ら禁欲主義者の群れの中にしか敵はいない。つまり
彼らの内で常にふつふつと沸き立っている不信しか・・・。というの
も彼らの影響下に無い者たちは押し並べて理想を持たないからである
。理想がなければ打倒もない。それどころか彼らの未来の信者に近し
い存在と言える。彼らには「汝自らの制定せる法律に従え」と叫んで
も大丈夫だ。彼らの受けた道徳教育が禁欲主義者を弁護してくれる。
「彼らの思想に反する事は良心に反する、不体裁で不名誉なことだ
」と自由意思によって語ってくれる。自身(キリスト教)の教義を没落
させるほど強力な理屈であるから。
ただしそれは真理には達していない。故に彼らは考え続けなければ
ならない。・・・いずれ真理にたどり着くだろう。その時、道徳は論破
されるだろう――目的も意義も有しなかった人間獣に間に合わせの意
義を与えた人類の偉大な貢献者たる道徳、禁欲主義的理想は――。
「人間は欲しないよりはまだしも無を欲する」
我々の無への意志は更新される、我々が「あらゆる真理への意志は何
を意味するか」との問いを持ち出すときに――。
以上、第三論文「禁欲主義的理想は何を意味するか」のまとめで
した。
