僕の宗教観

1.宗教は神について考えることに意味がある。神に

ついて考える者は神の向こうに人間や世界を見、すな

わち神の目を通して世界を見ることによって神と一体

化する。だから彼は神前に立っても願わず自身の誓い

や目標を宣べる。対して行為する者は神に祈り、供え

物をして反対給付を期待する。彼は神のランクや供え

物のランクを非常に気にして意味や効果の無いことは

しない。この違いは人生に対する向き合い方にも見ら

れ、思想家は人生について考えるのに対し、大衆は生

活に専念するからやはり損得を中心に考える。

 しかし自分に権威を与えるのは自分自身である。た

とえ世界の王になる条件が揃おうと自信すなわち精神

性が伴わなければ(もっと言えば統治について考える

ことがなければ)権力の誇示に終始するしかない。彼

は象徴としての王を信仰していない故に手に入れた有

利な条件すなわち既得権益を守ることにしか頭が回ら

ない。彼は王を信仰する人からすれば明らかに冒涜者

であり打倒するべき簒奪者である。

 補足しておくと神や王への信仰が無い人は自分自身

への信仰もない。だから平気で愚かなことをしたり自

棄を起こしたりいつ死んでも構わないと考える。金や

ステータスを過剰に追い求めるのに夢や理想を思い描

けないというのもその典型的な特徴であろう。自分の

中に神を宿していないから空っぽで自信が無く、熱血

教師が偉そうに見える。理論武装を破られると「何様

だ?」と思ってしまう。人を見る目も育たない。

 さて、話を神に戻すと勧善懲悪を勧めるのは天上人

であり、地上の神はその反逆者であり弾圧者である。

すべての人に等しく恩恵、恩赦を与える事は勧善懲悪

を否定することなしに成し得ないし、その理念のために

身体性を重んじる人々を唆して天上人を迫害するならば

彼は差別主義者でさえあるからである。彼は選択的に悪

人を救い、悪人を救うために善人を挫く。滅びる者は滅

びるに任せる事こそ平等であるのに彼らに滅びをもたら

す者がしばしば天上人であるが故に影響力の拡大を恐れ

て自然の成り行きに手を加える。それは幼い家族を養う

ためと称して万引きや詐欺を働くのと同じ。しかし彼は

自らそれに類する行為を行っている故に罪人を適切に裁

けない。彼はギリシア神話に描かれた神々のパーソナリ

ティーそのままに個人的な感情で判断し、行動する。気

に入った美少年をさらい、女を孕ませ、逆に気に入らな

い者を殺し、その町を滅ぼす。

 そして神がこのような体たらくであるので地上の人

々も政治や警察業務を差別なしに執行することができ

ない。そればかりか勧善懲悪への反逆心で団結して女

子供でさえ快楽のままに暮し、暴力団や過激なカルト

集団の設立まで許す始末。しかもそれを権力者が秘密

裡に保護し、地上の粛正のために遣わされた天上人を

殺すのに利用しているし、更生の入り口となる哲学を

全く排除して哲学者を不遜な者とさえ認識している。

これを堕落と言わずに何と言おう!

 このような事態を養老孟司氏は「脳化社会」とネー

ミングしたが、僕は逆だと思う。快楽は肉体に帰属し

ているので現代人は身体性中心主義に傾倒している。

芸術への没頭が没我や利他主義をもたらしてくれるよ

うに意識の世界に個人の区別や肉体的な快楽は無いの

だ。だから個人の快楽を追求する現代人は幸せになれ

ない。

 現代人は仏教徒もキリスト教徒もイスラム教徒も一

度拠り所とする神から離れて独り立ちすべきである。

そして神とのかかわり方をもう一度見直さなければな

らない。神に祈るのをやめなさい、そして誓いなさい。

自分で誓ったことを守りなさい。そうすれば自分の中

に神が宿る。それが哲学を生み出し、芸術や自然を理

解する心を作る。肉体から出た下品な言葉や感情から

離れられる。抵抗なく自分の天職に就ける。はっきり

言って地上の民はほとんどか肉体労働者である。地に

足を付けて生きよ。今はとにかく一つでも多くの道を

覚えよ。

2.今年もまた彼らは逃げるように年を越し、神社に

駆け込んでまた祈る。「今年もうまく逃げ切れますよう

に。去年よりも楽に逃げられますように」と。毎年年

の瀬が近づくと歩きたばこをする人が増えるのは彼ら

の心情をよく表している。本当によく教育されている

と感心する。

 彼らは自分の拝んでいる神が邪神ではないかと疑っ

たことはないのだろうか。神頼みをしながら勧善懲悪

に生理的に反発する自分の感情を疑ったことはないの

だろうか。古来より勧善懲悪を勧めてきたのが神では

なかったから世界各地にそれに反発する暴力団なるも

のが組織されてきたのではないか。そればかりか宗教

団体そのものが暴力団化している。彼らの敵は地上の

神よりも上位の者すなわち天上人であった。地上の人

間は身体性を重んじるが天上人は精神性を重んじる。

前者が弾圧し、敵に身体的苦痛を与えることに執着し

てきたのに対して後者はそれに難なく耐えて精神論を

説き続けたのは彼らの生命の在り方をよく表している。

 ちなみに理論武装が破られた時に彼らが負け惜しみ

のように発する「何様だ」という言葉も勧善懲悪への

反発が起源であることを知っておくべきである。彼ら

は自分の理屈が通用せず、常にそれが相手の権力にな

るくらいなら言論の自由などいらないと宣言している

のである。――何という自分勝手な俺様発言か!これ

が圧政や身分制度の動機になっている事は疑いようが

ない。悪党が権力に逆らいながら権力者にすり寄って

いくのもこの心理のためであろう。彼らの敵はすべて

天上人(=芸術家や修行僧を含む精神性を重んじる人)

なのだ。

 3.そもそもなぜ天上人が屈辱を味わうことを覚悟し

てわざわざ地上に派遣されなければならないか。それ

は地上の神が職務を果たしていないからである。天上

人に敵対する地上の神に天上界の恵みをもたらすこと

はできない。しかし天上人に口出ししてほしくないな

ら地上人がまじめに生き、地獄出身者のこともしっか

り管理して地上の神に華を持たせてやってはどうか。

何を彼のコンプレックスに付き合って一緒になって神

の地位を貶めているのか。現象の意味を考えよ。

(これは権力者と暴力団の関係あるいはスラム街の住人

との関係にもみられる)

4.人を喜ばせるのが好きな人は喜ばせよ。分け与え

るのが好きな人には分け与えよ。笑わせるのが好きな

人は笑わせよ。そして人を傷つけるのが好きな人は傷

つけ、人を憎む人には憎しみを与えよ。彼らはそれを

長所として受け取るはずだから。しかし異質のものを

与えると彼らは性格を歪めたり傲慢になったりする。

5.あなたの才能や前世について、それが見える人は

しばしば思いがけないことを伝えるだろう。しかしそ

れを否定して別の道を模索しても未来は開けない。

そういう意味で「なりたい自分」への信仰はあなた

の才能を封殺し、人生を遠回りさせるだけである。そ

してその不安に邪神が付け込む。進歩が無いことで人

生の筋から外れていることを悟られよ。

6.空海著作の『秘密曼荼羅十住心論』を分析

 弘法大師(空海)は人間の心が大日如来と一体化して

真理に達する道のりとして十の心の段階を設定したが、

読み進めるうちに僕の解釈との差にずれを生じてきた

のでそれを記しておくことにする。

*資料は

http://jyoryuzi.aki.gs/jyoryuzi20/kokoro/jyujyushin.html

 第一住心|異生羝羊住心(本能的)――禽獣のごとき心

の段階を言い、欲望を知ったばかりでその意味も制御

の方法も知らない、人間以前・倫理道徳以前の状態。

 【僕の解釈】無知、無教養の状態で保護者を保育者

としか認識していない状態。ひよこは生まれて初めて

見たものを何でも親と思い込むが、それと同類。自立

心なし。

 第二住心|愚童持斎住心(倫理性)――愚かな少年の心

も導く者あれば自らを慎み、他に施す心が起きる。倫

理に目覚めた段階の状態。

 【僕の解釈】保護者を認識し、同化することによっ

て自らが人間であることを知る段階。保護者を観察し

ながら分別を付けていく。犬も自分を人間と思うと理

性的にふるまう。ただし発達段階ゆえ方便は未発達で

理解できない。

 第三住心|嬰童無畏住心(宗教心)――世の限界を知っ

て死後の安楽を願う心持。これは仏教以外の宗教でも

同じである。これは人間一般の宗教心で、ちょうど幼

児が母の懐にいる間は世間の苦しみを知らず安らかに

しているのに似ている。

 【僕の解釈】方便に翻弄されて挫折を知り、周囲に

迎合することで安穏を保とうとする段階。これは資本

主義社会の労働者階級やいわゆる「グローバル疲れ」

した国に見られる状態でなるべく波風を立てず、安楽

を脅かされた時にだけ集団で声を上げる。

 第四住心|唯蘊無我住心(無我心)――事物の本質は存

在せず、人も万物も仮の存在を保つに過ぎないと考え

る宗教的認識(小乗仏教)の第一段階。自己の解脱を追

求する。

 【僕の解釈】いろんな事を諦めることによって自他

の区別がなくなり、ただ現象の帰結に注目してそれに

適応することに専念する段階。「諸行無常」を最も感

じられる時ではあるがまだ身体性への執着は失ってい

ない。

 第五住心|抜業因種住心(自利的)――よく事物の生起、

関連の法則を知り、迷いの元や業の原因や種子を抜く

境地。同じく自己の解脱を追求する過程。

 【僕の解釈】再び気力を取り戻して現象の原因や法

則について考え始める段階。ただしその時間がある人

に限られる。

 第六住心|他縁大乗住心(利他的)――すべての衆生を

救うことを目的とする大乗仏教の最初の段階。

 【僕の解釈】現象の原因や法則についての考えがま

とまり始め、実践に移したくなる段階。ここで人は孤

独な部屋から世間に出て人為的な原因についての改善

を人々に呼びかける。ただしそこに功名心や利己心は

無い。

 第七住心|覚心不生住心(空の境地)――心は何ものに

よっても生じたのではない。すべての相対的判断を否

定し、心の原点に立ち返って空寂の自由の境地(中道)

に入ることを目指す。法相宗の心を示す。

 【僕の解釈】原因や法則を知りながらなお悪い状態

に留まろうとする人々を見て善悪や損得などの二元論

的な判断を否定する段階。ただし第三段階の人々が自

身の安楽を守るためにこれを主張することもあること

から人間の身体性への執着を改めて考える時でもある。

 第八住心|一通無為住心(生命観)――万物は真実その

ものであり、本来清浄なものである。この境地に入る

とき従来の教えは一道に帰するはずである。法華、天

台の境地。

 【僕の解釈】悪人や雑草の生きようとする意志や執

念を尊重し、それを生命に対する誠意と解釈する心持。

 ただし同情を示しながら救えない者は無理に救わな

いという考えも抱き始めている。

 第九住心|極無自性住心(価値観)――世界には一つと

して固定的本性はなく、すべてがそのまま真実である

と見る境地。華厳宗の心の段階。

 【僕の解釈】生命への執着さえ固定観念であると悟

って落ちる者、滅ぶ者のもまた必定と考える段階。ア

ポトーシスを理解できる段階。諦めの境地すなわち達

観。

 第十住心|秘密荘厳住心(絶対観)――ここに至って

万物は真実の表れとして大きな喜びをもって万人の知、

情、意に受け止められる。真言秘密の境地。

*言語、分別を超えた境地であるゆえに「秘密」と云う。

 【僕の解釈】ここでいう「大きな歓び」とは天罰や

地獄などは無いという結論に対する喜びか?とすれば

勧善懲悪の否定を成就した段階である。

 しかし救わなくてよい者を救ったせいで犯罪組織や

増税や貧困、地球温暖化による自然災害などに脅かさ

れていることは『出エジプト記』におけるエジプトの

民と同じ境遇ではないか。パロもまた天罰や神の奇跡

を否定して側近の魔術師を使ってその再現を試みたた

めにエジプトは度重なる災害に見舞われることになっ

た。

 天罰は本人ではなく弱者(あるいは持ち物)に降りか

かる。それは神が反逆者の精神性に訴えるからである。

しかし身体性を重んじる人間は自らの身に禍が起こら

ない限りそれを事実と認めず、むしろ正義感を逞しく

して一層神(障害)に立ち向かう。僕はこれを「パロ・

コンプレックス」と呼んだ。それは一つの罠であると

同時に「反逆者は滅ぶべし」という世の中の仕組みを

人々に伝える神からのメッセージでもある。

 しかし仏教は万人の知として「勧善懲悪の否定」を

選び、人間中心主義を説くパロを支持した。ために人

々は世(人間)の限界を認めながら高僧が得た知恵や真

理を拝借して自身の理論武装を補強し、個人の利益や

自由を一心に追求している。しかも自分は地道にまじ

めに生きているから神に祈れば願いを聞き届けてもら

えるし、パロを支持しても裁かれることは無いと奢っ

ている。

 しかし「ばちが当たる」という言葉があるように災

いは合気道の技と同じく人の行為や言葉の力の反動で

起こる。例えばビジネスマンたちが金儲けに「老人や

子供は邪魔だ」という思念をまき散らした結果天災が

起こった場合、生き残った若い人たちにできることは

がれきを撤去して新しい家を建てるだけ。新たに家の

ローンを支払う体力がある人は留まって家を買うかも

知れないが、それ以外の人は他県に移動するにしても

留まるにしても賃貸住宅に住むことになる。すなわち

家を失う。これは天罰ではないか。

 また資本主義先進諸国に見られる少子化も、アフリ

カの女性は貧困から脱する手段として子どもを多く産

むのに対し、資本主義国の女性は貧困を理由に子を産

まない、すなわち子孫を残すことを断念する。これも

養老孟司さんにいわせれば都市化を進めるのに自然の

権化である子どもが邪魔だという資本主義者たちの思

念に対する天罰ではないか。もっと言えば外国へ出稼

ぎに行かなければならないことも正月に都会のアパー

トで孤独に三が日を過ごさなければならないことも中

元や歳暮や年賀状を贈り合う友人・親類を失うことも

移民や難民も、グローバリズムを唱えて他国(の経済)

を侵略しなければならないことも、人の物を盗まなけ

ればならないことも国民を監視しなければならないこ

とも殺さなければならないこともみんな天罰なのでは

ないか。そしてそのすべての原因はパロにある。

 あなた方はいつまで神との戦争状態を続けるつもり

なのか?そうしてかかる負担に耐え忍び続けるのか?

神は何人も差別しないのだから先にどんな善行や功徳

を積んでいようと反逆者に与すれば反逆者でしかない

というのに。聖書にも朝から働いた者と終業一時間前

に来た者とで給与は同じという話があったのを思い出

すべきだ。あなたはただ自分の誓いを破ってこれまで

の人生を台無しにしただけ、そんな事は神の采配には

一切関係ない。門番に関所を通せと詰め寄って無視さ

れたから殴ったというのと同じ。一時の衝動に流され

たあなたが悪い。あなたが変わったのだ。

 結論としてこの理論は人間社会の問題を何ら解決し

ていないばかりか問題の本質から目を背けている。と

いうのも空海もまた身体性への執着から離れることが

できなかったからだ。人々がおよそこのような思考の

流れに従うならば確かに表現の自由は価値が無いばか

りか有害と言わざるを得ない。それが証拠に人々はこ

れを読んでもなお「そんなことくらい知っていた」と

いって僕に立ち向かう姿勢を改めないだろう。

 言い換えれば彼らは自分で大嫌いな自分たちに罰を

下しているのだ。罰することで自己嫌悪を満たしてい

る。ある人は苦行を課すことで自らを罰し、ある人は

軽蔑すべき人間の屑に服従することで自らを罰し、ま

たある人は自らを一層嫌うために卑しい行為に勤しむ。

まさに僕が指摘した憎しみの世界。・・・彼らはまず

「方便」から離れるべきなのだろうか?単純に学生か

ら社会人になる時に価値観の切り替えを要せずスムー

ズに移行できるように。

 7.要するに「他人のことには干渉しない」という結論は仏教

の社会的影響力を考えれば適切ではないということ。それは自

己の精神性とは和解したが他者の精神性とは対立関係を維持す

るという事だから。そして自己の利益のために干渉する人は他

者の精神性と対立しているのである。「人それぞれ」や「ありの

まま」というプロパガンダは人々に不干渉を促し、暴力や経済

制裁などは相手に身体的なことに集中することを促している。

では仏教はそういう人を咎めているか。ただ干渉された人に

「薬があります、悔しい気持ちを忘れなさい」というだけでは

すべての人を救うことは物理的にできない。インフルエンザと

同じく予防を呼びかけなければ逆にウイルスの増殖に利用され

るのが落ち。遺伝子組み換え食品や放射能汚染や電磁波被ばく、

グローバリズムの推進もマスコミは盛んに人々に気にするな、

陰謀論だと喧伝している。彼らは善悪も良し悪しも全く分から

ないままただトレンドを仕掛け、拡散しているだけ。その裏付

けとして専門家を頼んでコメントさせたり、哲学者の名言を無

思想に引用したりする。もっともらしく見せるために。

だからこそ宗教家や思想家は正しい知識をもって彼らや我々

の知識を盗んで理論武装する第三住心の人々を批判する立場で

あらなければならないのである。良い所取りでは通用しないん

ですよと。

 極論すれば我々は身体性を重んじるすべての人の敵でなけれ

ばならない。否、批判しながら慕われ、居ないところで褒めら

れる存在を目指さなければならない。不興を買ったら人が集ま

らないとか寄付金や補助金が減るといった憂えは身体性への執

着であり、人々の理解によって生き、誤解によって死ぬことこ

そが我々精神体の定めであり、同時に天の恵みであり、天罰な

のである。人間が身体性への執着に縛られる限り精神体は屈辱

に耐えながら存在し、正しい知恵を教え広め続けなければなら

ないのである。

 8.そう考えればアポトーシスの定義も少し変わってくる。す

なわちそれは自己の精神性に対立しながら他者の精神性および

世間という精神性および冥界からも拒絶された者が死後の安楽

を得ようと不摂生を行ったり、敵を挑発したりして外部要因に

よる死を求める心理状態ということになるだろうか。

 ただし殺されたからといって冥界に入ることを許されるわけ

ではないし、自傷行為による自殺だけが罪を問われるわけでは

ない。貧乏に負けて罪を犯す者もそうだが、彼もまた身体性へ

の執着を捨てられないが故にアポトーシスに陥るのだ。「自分

が変わった」ということも自己の内面とコンタクトしなければ 認めることができないのかもしれない。

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