まとめてつぶやき936 贅沢は敵だ

まとめてつぶやき

9/21

8:38 ポイントに着くと戦闘機と墨パウロが取り付く。

墨パウロ1111111(~9:00)111111111111

戦闘機1111

9:31 ヘリが私的幻想を守るために合流。頭撃ちと脱水攻撃開始。111

10:31,:34 ケムトレイル戦闘機が合流。また行き先なし。中二病の自己顕示。贅沢病だ。11111

10:30 トイレ。

14:10 中二病戦闘機とヘリが暴れ出す。脱水攻撃開始。

14:24 書き上げて移動。

17:16,:46,:49 帰路にてポリ公が付きまとい挑発。本当はもう一度あったが車が壁になってくれたのでスルーした。3回の中にも女子二人が盾になって守ってくれた場面があった。最近このシーンが増えてきて嬉しい。

今週はまた大一番の考察を披露しなければなりません。サイコパス達のリアクションを見る限りまた何か物が壊れる予感がしますが必要な事なので書いておきます。

 始まりは岸田秀氏の『ものぐさ精神分析』を久しぶりに開き「私的幻想」と「共同幻想」という概念に触れたことでした。私的幻想とはエスの幻想すなわち自己保存のための衝動のことで「自閉と全能感の保存を目指すナルチシズムを含む強い感情」のことです。対する共同幻想は各人の私的幻想を吸収し共同化したもので、本来の現実を簡略化した社会通念または慣習法のことです。それが公共精神ではないことは私的幻想を超えて(裏切って)人助けする人がいないことから明らかです。基本的には誰もが私的幻想の中で生き、これを脅かされるとどんなに大人しい人でも殺人を犯し、破壊されれば自殺や死刑を望むようになります。(通り魔や自爆テロリストは私的幻想が壊れた人) ―――例外は彼の私的幻想に認められた価値(人物、組織、文明、文化)によって幻想を破壊された場合で人々はイメージ対イメージの葛藤を避けるため新しい幻想、自分より強い幻想に恭順を示し、へつらい、それを盲目的に崇拝します。ちょうど日本政府や日本企業がアメリカにするように。

 「共同幻想に基づく人間集団は自転車操業の会社のように絶えず膨張をつづけるかぎりにおいてしか安定しない。だが集団は無限に膨張しつづけることはできないし、それを支える共同幻想は各人の私的幻想を完全に吸収することは決してできない」。ために年をとるほどに共同化できなかった幻想(自我)は膨れ上がり、人々は外の世界への適応を担う外的自己との乖離を深めていくことになります。「内的自己はそのような外的自己を自分の仮りの姿、偽りの自己と見なし、」それが行うことを他人事のように眺めるようになります。そうして内的自己は外的現実とも他者とも切り離されて純化され、美化され、理想化されてますます非現実的なものとなります。

 流行を意識しすぎる人や外国の思想やテクノロジーに依存する人は目の前の課題を外的自己でその場しのぎに処理しているのであって内的自己はそれを眺めている状態にあります。したがって「当人は外面と内面の使い分けによってうまく危機的状況に対処しているつもりでもそのことが彼の人格にぬぐいがたい亀裂と傷痕をきざみこむ。そしてその結果、彼がうまく対処するつもりであった危機的状況はますます危険で脅威的となり、(故に)ますますその防衛機制に訴えざるを得なくなり、ここに悪循環が生じる」。(P.16)

 すると「外的自己はますます他者(流行、テクノロジー)に屈従し、内的自己はますます他者を憎悪するようになる。そうなれば他者に対しては全面的な服従か全面的な攻撃の両極端の態度のいずれかしかとれなくなる」。これを分裂病質者という。

 「一般の人々が精神病者を気味わるがり閉じ込めておこうとするのは彼が危険だからというより、」我々が信じているところの共同幻想をまるっきり無視しているように見え、むしろこちらの考えこそが幻想なのではないかとの疑いを起こさせるからです。したがって真に健全であるためには個人も集団も擬似現実の中で生きているという認識を持っていつでもニュートラルなポジションに戻れる人でいなければならず、そこに無用な対立を引き起こしてしまうことになります。

 もう少しだけ本文に照らして語っておくと、都会における人間関係の希薄さは共同幻想の内に人々が共感できる部分がいかに少ないかということを表しており、個人主義の高まりは社会的現実の破綻を示していると言えます。社会生活が無味乾燥的でつまらないのは共感できる所がないからであり、社会が一部の支配層に私物化されているからです。ために大衆は他人行儀に日々の生活を送り、その埋め合わせとして共同化されなかった私的幻想を追求してサブカルチャーやマニアと呼ばれる潜在的文化、地下カルチャーを形成することになります。

 歴史を見れば多くの人が苗字を持たず、共生関係にあっても団結して何事かを成す意識を持たなかった時代から人様に衣食住を世話してもらうつもりで団結した暴力団が血縁関係による民族主義で暴力による人民支配を正当化し、それを政治と呼んでその集団の膨張・分裂・崩壊のプロセス及びそれを回避するための後継者争い、正当化への反発、ガス抜きとしての搾取、扇動、侵略戦争に人々を付き合わせてきただけで民衆が共同幻想と呼ぶものは彼らによって汚染された心(外的自己)を否定し、「自分は穢れてない、悪くない」という私的幻想を守るために彼らに服従し、道理を曲げて弁護し、彼らが示す敵と戦ってきたに過ぎないのです。(つまり大衆の中に共同幻想なるものはまだ存在しない) 支配者層にとって政敵は自勢力の崩壊を避けるためと臣民の私的幻想を利用するための生け贄であり、民衆にとっての政敵や正義漢(政府批判者)や差別の対象は人生がうまくいかないこと―――上司に叱られる、仕事をクビになる、人に嫌われる、異性にフラれる、子どもに反抗される―――を心の汚れのせいだと認めると生きていけないのでこれを回避するためのスケープゴートとして必要なものです。彼らが抵抗なく共謀することが出来る理由はここにあると考えられます。しかしそれは最善の判断ではありません。政治的抑圧のない集団、権力による抑圧を必要としない集団、もっと言えば仕事が出来ない人がいない集団に汚れや澱み、わだかまりはないからです。集団は軸となる人が汚れているからこそその成員も汚れるのであり、そこから反対者や離反者や派閥、勢力争い、内部抗争などが生じるのです。これを防ぐにはリストラの対象を下位の成員ではなくトップや幹部から行うことです。それが生態系の原則から考えても常識なのです。

 あらゆるルールはケジメをつけるためにあり、多くの目標やモチベーションの維持もケジメを付けることを動機にしているはずです。弱いからイカサマをして良いとか有害な団体が結託して生き残ろうなどという道理はありません。ルールを持たない集団の結社は禁止すべきです。

 さてここからが私の考察です。岸田氏の精神分析とちゃんと結合するかどうか分かりませんし、まとまりもありませんが表題に合うように努力します。

人の真似をすることや道具の力で実力不足を補うことは贅沢なことであり人間の傲慢さ(私的幻想)に端を発しています。そして贅沢は個人の感覚や予想を超えた快楽や効果をもたらしてくれるが故に中毒になりやすく、これを自分の一部と錯覚した人から腐敗と暴力と貧困が広がるのです。なぜなら贅沢は他者のものを奪わなければ決して叶わないからで彼らは暴力を肯定しながらそれを外的自己の行動とし、内的自己は抑圧されているとの感覚を以てこれを正当化するからです。したがって私的幻想は犯罪行為との親和性が高く、バットエンドのストーリーに傾倒しがちです。自由に妄想して良いと言われてわざわざバットエンドのストーリーを描くこともハッピーエンドのストーリーに乗り換えることで生じる耐え難い苦痛も私にはさっぱり理解できませんが、恐らく贅沢をして手に入れたものは内的自己の満足をもたらさないので痛みによってそれを確認するしかないのではないかと思います。男性が女性から「釣った魚に餌をやらない人」と非難されるのもいい所を見せようと武装した外的自己で恋愛関係に対処しようとし、かつ私的幻想を破壊されることを嫌って距離を置くからでしょう。男性にも女性にも異性に対する幻想があり(好きな人は排泄もおならもしないなど)、これが破壊されることを病的に嫌います。(殺意を抱くほど) 女性はこの幻想が壊されるとパートナーに事務的な要求をして別の幻想を作り上げようとしますが、男性は逃避してセックスレスになったり浮気したりアニメに逃避したり喧嘩別れを仕掛けたりします。この差はパートナーと新しい共同幻想を創り上げていくことに喜びを感じるか否かにあると考えますがこれが他者への関心や子ども好きの度合いなどに関連していると思われます。

 例えば女性は5人も10人も子どもを産み育てるバイタリティー(と忍耐力)がありますが男性は子どもが増える度に丸くなり、女子の数が勝ると簡単に窓際族に追いやられます。それは共同幻想に適応できないからでしょう。男性社会は弱いリーダーを武力、財力、数の力、そして忖度によって擁護することが人間関係のメインであり、リーダーの私的幻想すなわちメンツを守ることこそが成員の使命なのでメンタルが強い集団では出る幕がないのです。彼らにとって社会的地位とは成員がめいめいの私的幻想を満たすための利用価値の指標にすぎず、彼らは支持されるほどに腐敗し、内部崩壊を引き起こすので褒めることを主体とした集団は脅威(憎悪の対象)なのです。だから彼らになぜ犯罪にしか繋がらない幻想を捨てられないのか、ハッピーエンドを描かないのかと問うても話が通じず、私的幻想のせいでイカサマに頼らなければならないほど弱いのにそれを頑なに捨てようとしません。それこそ私にとっては拡声器程度の物でしかないスマホを必死に盗聴し、破壊しなければならないほど彼らは弱いのです。政治家や警察が私にスマホを持たせておくことは脅威だなどと力説したら世間の人々はきっと笑うでしょう。同じことは彼らが持つレーザー兵器についても言えることで、幻想が破れると死ななければならない彼らにとっていくら撃っても捕まらない銃の開発は死活問題ですが仮にそれを市販しても彼らと同じ熱量でこれを使う人はごく僅かでしょうし、すぐにブームは去って捨てられるはずです。というのもその性能はターゲットが30センチ横にずれるだけで、また机の上に上がるだけで照準を設定し直さなければならないほどお粗末なものでパチンコと同じく使用者をのめり込ませることに主眼を置いたアメリカンクオリティの製品だからです。こんな物を本気で使っている人を見かけたら皆も私と同じようにバカにするでしょう。だからこそ彼らは警察印を付けて特別な人にだけ使用を許された特別な物という付加価値を付けてこのポンコツを売りさばいているのです。戦闘機など真剣に作った軍事兵器でさえ不良品で貿易赤字について文句を言えるような立場ではないのですが「アメリカは超大国である」という不幸な幻想を捨てられない故にテロや北朝鮮や中国やロシアの脅威を喧伝して間に合わせでも良いと思わせることで不良品を押し売りし、かつこの幻想を共有する共犯者たちもこれを(国民の金で)買ってやっているのです。そのしわ寄せが世界中を覆う長い不況と貧困、暴力、そして地球温暖化なのです。アメリカの建国が世界に混乱と不幸しかもたらさなかったのは彼らが私的幻想に固執したためです。ついでに言えば大衆が私の主張や提案に反発するのも一見すると彼らの死に対する幻想を脅かしているためのように見えますが、彼らは私的幻想を破壊されれば人生を放棄し、勝手に死にたくなるので「死にたくない」という感情は単に「まだ私の幻想は壊されてない」という損得勘定の表明でしかなく命の話ではありませんし、幻想が破れたくらいで死んでやるといって犯罪行為(被捕食行動、自己破壊行為)に走るような人は現実に適応しておらず端から生きていないのです。そんな人と話しあっても世界は平和になりませんから不幸になりたい人には速やかに不幸を与えてやり、バットエンダーには速やかにバットエンドを与えてやれば良い、祈りが届かないと世間に八つ当たりを始める前に。共同幻想を誤解してはいけません。国を統治するにあたっては反対者よりも官民共通の敵すなわち反社会的勢力を始末することがセオリーです。善意が孤立する国は国ではなく無法地帯でしょう。

ハッピーエンドの世界は人生と同じく成員の努力だけで成り立ちますから彼らの障害を必要としませんし、人生に没頭している人は幸不幸を線引きして考えることをしません。ルール違反と不当な障害に退去や撤収を要求するだけです。例えば今回の台風14号を見て私が政治家なら一番に台風を相殺さ、進路を変える装置または薬剤の散布を提案し、設置するでしょうが彼らは「安倍の祟りは彼らにしか及ばない」と発言しただけでその到来をほくそ笑むのです。このような人達を追放するのは当然のことでしょう。バットエンダーは動機の起こし方を知らないのだと思います。普通は自分に足りない所、至らない所を見つけたらこれを克服しようと努力しますが、彼らは努力をする気がないので無い物ねだりと釣った魚への無関心を繰り返すことになるのです。そういう意味で特に新興宗教の信者を善人と見てその救済を唱えることは間違いです。彼らほど欲深い者はなくまた社会悪を歓迎する者もありません。それは旧統一教会の信者達が私たちの社会をサタンに支配された場所と信じていることとお布施の額を競い、金持ちだけが天国に行けると信じていることから明らかです。これは合理主義者や科学的思考で物を考える人にも言えることですが条件を整えれば自動的に願いが叶うとか狙った効果が得られるとか優先権や主導権が手に入るというのは全ての現象は単純な化学変化によって起こるとして個人の能力やコンディションや実情を無視した非科学的かつ非論理的な自己中心的な発想です。人生は狙い通りに行かないことばかりなのにそれを可能な限り「前例のないこと」といって払い除けていたら耳学問だけで何も経験していない人になる。それこそ好きな人に告白する勇気のない女子が集まって人のノロケ話や痴話喧嘩を不愉快に思いながら聞き続けているようなもの。自分が経験できないことや踏み出せないことを聞いて済ませているから自分を説得する材料がなく、人に話す時にもどこかで聞いた意見の受け売りばかりになるのです。敵を作らなければ自分の立場を確立できないのも行動していないからです。こういう人は好きな気持ちでさえ人に迷惑をかけるので「〇〇君はみんなのもの」同盟を作っても誰も幸せになれないことに気が付きません。

『君に届け』11巻

大人が子どもの提案や注意を無視し、怒り出してしまうのは問題解決能力が低いからです。社会経験のない子どもが何を基準にその提案をするのかといえば場の空気です。心に余裕のある大人がいる場所は居心地が良いし、問題が生じてもそれをゆるく解決します。大人の落ち着きには少年の心が必ず見られます。しかし経験不足でいつもカリカリして無理に大人を演じている人は幼児にまで退行してコンマ1秒の要求をしてしまいます。陸上選手や水泳選手でもない限りそんな課題に挑まなくていいのに。良い空気を知らないから解決の基準がわからない。それで完璧主義に走ってしまう。その基準は誰にも文句を言われないことですから演劇の舞台のように緊張感の中に身を置くことになります。それを子どもが真似をして学校で再現したものがいじめです。そこは怒り/恐怖と傍観とそれらを見てほくそ笑む復讐心によって構成されています。そしていじめが演劇のように同じ行為を延々繰り返してしまうのはいじめっ子の家庭内もまた時間が止まっているからです。家庭内に監視者がいて脚本通りに行動しろと言われている訳では無いのに有機的な家庭生活を描けない。時間の流れを演出できない。それは経験を大事にしていないからでしょう。内的自己は扉に鍵をかけて外的自己で形式的に家族を演じているから発展性がなく澱んだ空気、イライラした空気しか作れないのです。こういう人は進化や浄化を悪だと言って逆上、逆ギレして家族や仲間をバットエンドに道連れにしようとする(人の幸せを妬む)ので子どもながらに自衛手段をあれこれ講じ始め、いじめ、非行、飲酒喫煙、援助交際、家出、ひきこもりなどの問題行動につながるわけです。そこで良い空気の場所を求めないところが救いがない。しかし若者の夜間徘徊の原因の一つであるポリ公が彼らを補導しても何の解決にもならないことは確かです。世の女性たちも差別と金(と社会的地位)の問題は本音の要求ではないことに気付くべきで男の子を共同幻想に引きずり込むことを考えるべきです。

人は自分の能力や価値を高めている間に人生が終われば罪を犯すことも無く充実した日々を送れるのに結果を急ぎ居場所(社会的地位)を先に欲しがるから悪い人に利用されることになる。それが唯物論者の不幸です。こういう人たちは食糧や便利な道具が魔法で生み出され、人を殴ればお金が出てくると考えている節があるので農業体験でもしてその過程をインプットした方が良いと思います。そうして様々な問題の解決能力を高めて余裕を持って課題と向き合えるよう訓練すべきです。中庸とはどこでも誰にでも通用する事柄ややり方のこと、幻想を守るだけで人生は成立しないということを知るべきです。

他人が提案することは楽しいことしか受け付けないと言いながら自分はバットエンドのストーリー(死への順路)しか考えないというのでは楽しいことだけ求めているというのは嘘になるのでは? 楽しい感情もまた中庸であるべきです。

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