中近東の歴史

茂上誓太

 古代文明を当該地域だけを見て解明することはできません。それは気候変動に翻弄された人類の移動と選択によってもたらされた偶然かつ必然の産物であり、その材料も知恵も一つの居住地で調達し得るものではなかったからです。例えば四大文明の一つメソポタミア文明の揺りかごといわれているメソポタミア南部(ペルシア湾沿岸のシュメールエリア)には葦と泥と天然アスファルト(瀝青/れきせい、ビチューメン。正確にはユーフラテス川中流のヒットという町から採取)がなく、木材も石材も金属類ももちろん宝石も輸入しなければ使えませんでした。しかし古代人はエデンの園を離れて必然的にそこへ移動し、自ら耕作して食糧を作り出さなければならない状況に追い込まれたことで都市を形成し、遠隔地の同胞と交流し、必要な物資や工芸品や情報を交換し、あるいはその中継地点に新しい町を作って生きていくためのネットワークを構築するよう意識を変えていったのでした。最初の人類は戦争なんてしません。自分たちの土地で採れるもの、創り出したものをもって東へ西へと旅をしてお互いの売りを認め合い、友好関係を結んだのです。そのため同じメソポタミアでも北部と南部とでは発展の経緯が異なり、北部の歴史を語るにはザグロス山脈以東のイランからアナトリア半島、地中海東岸地域そしてエジプトまで彼らが辿った一連の地域の歴史を語らなければなりませんし、南部の歴史を語るには同じくイランの歴史とインダス文明、インド、アラビア半島、そしてアフリカの歴史を語らなければなりません。しかも考古学者たちの研究は未だ半ばですから私の解析も仮説の域を出ないと言わなくてはならないでしょう。それでも歴史の教科書よりは読者に古代史の流れを把握して歴史を知ることの面白さを伝えることができるという自負があって筆を取ったのです。この本があなたの思考プロセスを豊かにしてくれたら幸いです。

 それではまずメソポタミア北部の歴史から見ていきましょう。

  • メソポタミア北部の歴史

 人類史ではこのエリアの人類はヨーロッパ大陸のネアンデルタール人が東進してきて定着したと理解されています。彼らは十五万年前から三万年前まで活動し、原生林の森で猟犬を操って狩猟採集生活を営んでいましたが、一部のグループが森に沿って中東―インド―中国まで進出して定着し、あるいはイベリア半島からジブラルタル海峡を渡って北アフリカに定着しました。メソポタミアにおける彼らの痕跡としてはザグロス山脈のシャニダール洞窟(クルディスタン地方アルビル県)に六万五千年前から三万五千年前に暮らした家族の骨(成人七体、幼児二体)が見つかっています。彼らはその後各地で独自の進化を遂げ、現生人類である我々と同じ新人と呼ばれる脳の発達段階に進化します。

 彼らの生活に変化が起こったのは一万二千年前のヤンガードリアス期(1万2900年から1万1550年前)で、北半球で寒の戻りがあって一時的に温暖化から寒冷化に逆戻りしたことで気候が乾燥化し、温暖化によって発生した野生の麦が減少すると共に野生動物も数を減らしながら水辺への移動を余儀なくされ、人類も獲物を追って森から平地の湖へ移動しました。地中海沿岸ではアナトリア半島からイスラエルの死海およびヨルダン川沿岸への南下、北メソポタミアではザグロス山脈のオークやピスタチオの森から黒海やヴァン湖(ナイリ湖)やカスピ海沿岸への北上で後者の野生動物の北上については温暖化によりカフカス山脈やシュプハン山(ヴァン湖湖畔)やアララト山(『旧約聖書』の大洪水物語でノアの方舟が漂着した山)の氷河が溶けたためと説明されています。

 そしてこの移動をきっかけとして一万年前(紀元前八千年)より人類は麦類の栽培および集落の建設を始めたのでした。ちなみにシリアのアサド湖東岸にあったテル・アブ・フレイラ(1万1500年前に成立し8000前に放棄、第二期は前7400年から前5800年まで活動)では1万3050年前よりライ麦栽培が始まっていた痕跡が見つかっています。「人類は樹上生活からサバンナに降り立ったことで道具を作り、文明を発達させた」という定説がありますが、正しくは森林における狩猟採集生活から平野部に移動して自給自足の生活を意識し始めたことで集落を作って定住し、天候や自然現象や死や先祖への畏怖と向き合って宗教を生み出し、貯蓄や他村への運搬を意識して土器を作り、共生共存のための法律を作り、足りないものを補い合うためのネットワークを作ろうとする意識改革を行ったのです。

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